近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 431
タイトル 帯締めの工夫と変容
解説

お太鼓結びが、それまでの帯結びに基本的な変革を与えたのは、帯を結ぶという機能を、装身具的な飾り結びにしたことであると、『日本の結び』(1977)のなかで額田巌は言っている。そのために形を保つ必要から、細紐の助けが必要となって、帯締めの誕生となり、帯留めを生み、帯揚げが生まれたと。

第二次大戦後に付け帯やいろいろな飾り結びが工夫され、それを気に入らない人もあるようだが、じつはお太鼓結び自体が、飾り結びや附け帯とそうちがわないものなのだ。だからお太鼓の場合、「結ぶ」ものではない、という考え方もある。

帯を結ぶ、ということは帯をひどく痛めるものです。伊達巻で形が出来た上は、帯は飾りにつければよいのですから、あまりしめつける必要はありません。(……)成る可く飾り品、という心持ちでお締めになるがよいと思います。
(「品のよい春の着付」都新聞 1925/4/13: 4)

打ち合わせ式衣服の、前がはだけないように保つことはむずかしい。一番よい方法は、打ち合わせの部分にボタンか付紐をつけることで、体裁を気にしない子どものきものや、動きのはげしい舞台衣裳には付紐が使われている。

女帯が、衣服を固定するための役には立たなくなってしまったのは、男帯とちがい幅が広く、また堅くなりすぎたためだ。布幅だけをいうなら兵児帯の方が大きいが、女帯はふつう芯を入れて板状にしているため、それ自体では結ぶという機能を失った。そのため女帯を締めるということは、帯という大きな飾りものを、たくさんの紐や小道具をつかって女性の胴体にくくりつける、という作業になった。お太鼓結びには紐が多すぎて面倒、という女性自身の嘆きは、戦時中には不健康、非衛生、不経済という批判に転じた。

消費節約、生活簡易化は国策の一つとして、銃後の国民の進んで実行すべきことである。この際服装簡素の第一着として、婦人の腰帯の無駄を省きたい。帯は二本、否一本でも足りる。
(→年表〈現況〉1938年8月 「婦人と腰帯」朝日新聞 1938/8/8: 3)

明治時代の帯幅は江戸時代と比較すればせまくなっているが、1900(明治33)年頃と現代とをくらべれば、さらに3センチ程度せばまっている。女性の身長の伸びを考えれば、相対的にはその倍くらい幅がせまくなったといえる。元禄頃の吉原に、とびきり幅の広い帯の好きな遊女がいて、「帯獄門」というあだ名をつけられたという。処刑の獄門台の上に首が載せられているようだ、という意味で。特注の帯だったのだろうが、ひとの好みはさまざまだ。

幅のせばまり以上に結びやすさに貢献したのは、各種のやわらかな帯の開発だった。明治以前にあったのは織物を二つ折りにして、中に硬い芯をはさんだいわゆる丸帯と、表裏がべつの柄になった片側帯だけだった。

1900年代以後(ほぼ明治30年代後半)になって、それまでも一部ではつかわれていた袋帯に人気がでると、それ追うようにして名古屋帯が工夫された。袋帯は風通とおなじ両面組織の応用、名古屋帯は胴の部分と太鼓の部分をあらかじめべつの幅に仕立てておく一種の仕掛け帯。1920(大正9)年以後名古屋帯や、それに類似の各種新装帯、軽装帯、また場合に応じての半幅帯が普及しはじめると、丸帯はいっそう仰々しいものになって、日常的に用いられることはまれになる。

昔は堅苦しく丸帯でなければならなかったのが、今日では片側帯又は単 重帯で礼式以外通るようになっているのだから、その着方さえ上品で身ごなしに気をつければ、五円前後の中形で十円前後の単重帯に無地の半襟位で立派な涼味たっぷり の夏姿が出来上がるわけである。夏姿は金目でなく涼味と気楽さと曲線を現す所に中心がある。
(→年表〈現況〉1925年7月 「夏帯の現在」国民新聞 1925/7/1: 5)

帯がさがるのを支えるための帯揚げは、明治大正期には背負い揚げ(しょいあげ)といい、着つけの商売人の多くは戦後もそういっていた。前に回したその両端を帯の胸元に突っこんで固定するが、その部分が半襟に劣らないくらい目立って、装飾的効果もあるため、にぎやかな議論になった。礼装のときは絞りにきまっているとか、いやあまり出すべきではないとか――。着付けの、ほかの些事同様、和装が戦後のように窮屈なものになる前は、正式な場合でも、かなり好みのままだったようだ。

帯揚げ、帯枕、帯板、帯形、帯締め、伊達巻、伊達締めなどなど、お太鼓を支えるための補助具や小紐のなかには、最初のうちからあったものもあるし、だんだんと加わった工夫もある。こうした便利な小物類の工夫の背景には、もうこの時代の娘たちは、幼いときからきものしかない環境のなかで育った娘たちとはちがうという、いわば女性たちの和服ばなれの現実があった。セルロイド製のお太鼓結び補助具「帯形」の推薦文に、

これまで女学校でお袴ばかりはいていらしたお嬢様方が、いよいよ御卒業になり、いざ衣紋をぬいて帯をお太鼓にしめようとなさるには、どなたも最初のうちは閉口なさるようでございます。
(「短い帯で上手にお太鼓が結べる帯形」【主婦之友】1926年6月)

とある。しかも時代はさらに、袴どころか、スカートしかはいたことのない娘が増えつつあった。

第二次大戦後になって目立つのは金属やプラスチック製の固定具だ。打ちあわせタイプの衣服と、帯を用いて着る、ということは、ある程度のゆるみがつねにあることが前提になっている。着崩れを防ぐためにあまりしっかりした固定具をつかうのは、和服ほんらいのゆるみの美しさを損なうのではないかという疑問もある。とはいえ、どこを見てもシワもゆるみもない現代和服の着こなしを見ると、仕立てのよいスーツの美しさに眼がなれている現代人は、ああ美しい着物だと納得する。

近代の女帯についての大きな話題のひとつは、帯の高さだった。帯が高くなったと言われはじめたのがいつかはっきりしないが、女学生の袴との関係も考えられる。

一般に女学生たちは胸高に袴をはいた。袴の低いのは男っぽく、ときにはぞんざいな、野卑な風態になる。この袴の高さが、袴をはかずに帯になったとき――いわゆる帯つきすがた――でも、そのイメージが持続されたと考えられる。

帯は一体に、下よりは上の方が上品(おひとがら)でございます。
(→年表〈現況〉1912年9月 「格好よく着物を着るには」【婦人画報】1912/9月)

脚のみじかい日本女性が、すこしでも腰から下を長く見せようとする願望から、とみる人もある。下ばきをはくようになったため、という見方もある。また、[都新聞]の1921(大正10)年9月7日の投書欄に、「帯を胸高にするのが好きなので乳の上に締めますが、すぐ落ちてしまいます、どうしたらいいでしょうか」という質問があり、これに対して回答者は、「実は好きなのではなく、乳の膨らみを気にしているのではありませんか」と言って、乳房を圧迫するのは有害と忠告している。この時代にはそんな理由から帯を胸高に、つまり乳房の上にしめる女性がいたらしい(→年表〈現況〉1925年1月 伊東深水「芸妓にのみ残る春らしい女姿」都新聞 1925/1/9: 9)。

また、帯が高すぎると、日本髪の場合であればさほどではないが、頭部の小さい洋髪では、ことに羽織を着た場合など、背中の膨らみが目立っておかしい、という意見があった。

帯の位置の高まりは1930年代後半(昭和19年代前半)までつづいた。口の悪い美容家の早見君子は、1938(昭和13)年に、「去年頃までは、後の襟から一二寸(3~6センチ)のところに、提灯箱のように真ツ四角な帯をしめていました」と言っている。提灯箱というのは、古い家では、台所や玄関の鴨居に釣ってあった。1940(昭和15)年前後からは、帯の高さは下がり気味の方向に転換している。

(大丸 弘)