近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 430
タイトル 帯―お太鼓の周辺
解説

女帯は江戸時代に特異な発展をした。末期の浮世絵を見ると、乳から腰にかけてほとんど垂直の円筒にみえるほど、幅広の帯が見られる。開化後、現代和服への過程では、女帯はより軽く、よりやわらかく、また幅もせばまり、しめやすい方向にむかった。色や素材のそのときどきの流行はべつにして、女帯の近代80年を要約するなら、お太鼓結びの支配、補助具の工夫、簡易帯の普及、の3つを挙げることができよう。

お太鼓結びは明治に入っての創案ではないが、明治期を通じてほかのさまざまな結び様をおしのけて、1910年代以降(ほぼ大正頃~)には、花街を除けば、街でお太鼓以外の和装の女性を見ることはまれな状態になった。お太鼓がそれほど一辺倒になった理由のひとつは、華やかさはないが、大人しい、上品なかたちが現代人の好みに合致したということかもしれない。また、ひとりでかんたんに結べるためかもしれない。家庭の下女たちや、牛屋の女中さんたちも、だれもがお太鼓結びだった。

それ以前、開化後1800年代の、とりわけ中以下の女性たちのあいだでは、結び下げや引っ掛け結びのような、より手軽で、やりようによってはかなりだらしのない結び様が多かった。明治末の1911(明治44)年に刊行された実用書『袖珍家庭文庫 第二巻 衣裳の巻』では、現代おこなわれる帯結びとして、お太鼓結び、やの字結び、竪やの字結び、お下げ、だらり結び、引っかけ結びの6種をあげている。その説明の一部を紹介する。1931(昭和6)年の『探偵常識』がほとんどそのまま引用している。

お下げ 下げ帯、結び下げ、猫じゃらしとも。掛と垂れを殆ど同じ長さに二度結びて、両端を垂らすなり。京阪地方における商家の娘、下婢、および舞子等の結び居る形なり。
だらり結 お太鼓結びの輪の端と掛とを折り込まずして、其の儘二尺ばかり垂れ下げしもの、芸妓などの正式なる結び方とす。
引っかけ結 だらり結びの掛を長く下げたるものなり、じれった結び、または間男結び、などの異称もあり。
(宝来正芳『探偵常識』1931)

東京と上方では、帯結びの言いかたでもちがいがあった。江戸風俗にくわしい大槻如電はつぎのように説明している。

今日西京大阪では娘でも下女でも新造の時は、この水木結びの余波(なごり)を伝えて居ります。ダラリ帯ともダラリ結びとも申します。舞子の帯も同じ事ですが、結びましたところへかい物を致しまして、結び目が庇(ひさし)のようになっております。
(大槻如電「江戸の風俗―衣服のうつりかわり」『花衣 一名・三井呉服店案内』1899)

水木結びというのは、幕末の名優水木辰之助が、背の高すぎることを隠すためにはじめたもの、と伝えられている。

引っ掛け結びは浮気結びという別名があるように、横に突き出た手の部分を引っぱれば簡単にほどけるようなチョイ結びだった。櫛巻の髪に引っ掛け結びは、かならずしも裏長屋住まいでなくても、明治中期までの庶民の女のもっともあたりまえの恰好だった。

もっともこの時代地方へ行けば、日常は帯もしていない男女さえめずらしくはなかったらしく、地方改良運動の矯風申合わせのなかに、「男女共に外出する時は可成(なるべく)見苦しからざる衣服を着用し、平素より必ず帯をする事」(→年表〈現況〉1909年12月 「帯を締めること、という申合せ」朝日新聞 1909/12/3: 5)などという項目をもつところも多い。お太鼓結びは結び方の巧い下手よりも、自慢の帯の地質や柄を、これ見よがしにみせつけるのにむいている。だから人前に出ることの多い裕福な奥様方に、またお座敷の芸者たちにも気にいられたにちがいない。芸者が結びあまりを長く垂らしているのもその理由だろう。東京の花柳界ではいまは柳、と呼んでいる。

お太鼓結びは結び方の巧い下手よりも、自慢の帯の地質や柄を、これ見よがしにみせつけるのにむいている。だから人前に出ることの多い裕福な奥様方に、またお座敷の芸者たちにも気にいられたにちがいない。芸者が結びあまりを長く垂らしているのもその理由だろう。東京の花柳界ではいまは柳、と呼んでいる。

10代の少女の結び様は矢の字結びだった。華やかさもあったが、古風な結び様でもあったから、東京のある特別に保守的な女学校では、式日というと生徒にこの恰好をさせている。10歳くらいまでの少女は矢の字といっても、傾けないで垂直に背負わせる。これを竪矢の字(たてやのじ)と言っている。四角い荷物でも背負わせているようで、現代の我々の目には美しくも可愛くもなく、むしろ奇妙に見える。

少女たちはふだんはたいていは細帯を無造作に結んでいて、幅のひろい帯は結ぶのも面倒なら、締めているのも窮屈なので嫌う子もいた。ことに夏場はそうだった。しかしいつも細帯ばかりしていると、お尻が大きくなってしまうと親からおどかされた。

十四五までは矢っ張りやの字結びが一番上品で可愛い、昔の腰元姿の宜いのも此の結び方だからである。引懸け結びは浴衣の時などならば悪い事もないが、きちんと極った服装には下司張って見える。然し白地の浴衣に湯上がりの折などは暑苦しく見えないで粋なものだ。ただし此の結び方は妻君達に限るので、娘さん達は真似るものでない。
(RY子「女の姿」【婦人界】1904/3月)

明治後期以後、だれもがお太鼓の時代にはなったが、おなじお太鼓でも、年齢によって形がちがうし、帝劇の廊下の奥様のお太鼓と、柳橋の姐さんのとは一見して区別がつく、と言われた。芸者たちが見れば、新橋と柳橋と深川ではまたちがう、という。しかし困ったことには、奥様のなかには芸者の真似をしたがる方が少なからずいた。一方芸者の方も、奥様風にしてお客を喜ばせたりした。

牛屋の女のお太鼓はぺしゃんこで、奥様のお太鼓はふっくらとしている、とか、芸者は帯締めを斜めに締める――ぐらいのことは、田舎から出て来たばかりの書生さんでも見わけがつくのだが、それ以上のことがわかるようになるには、もっともっと無駄金をつかっての経験が必要のようだった。

(大丸 弘)