近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 429
タイトル 女性コート
解説
昔は女が鉄色の真岡の長合羽を着たもんで、明治廿年までは一般に此の風でしたが、廿年(1887)ぐらいから以来は女が其の羅紗のコートを着るようになって、それが又二十五年(1892)以来、御召の地、糸織の地もあり、今日の変革になったのです。(……)私が其の明治十五年(1882)に角袖の外套を始めて拵えた。それが大変いいてんで角袖の外套(長合羽)をだれも着るようになった。(……)それから婦人が着てみたら如何だろう、というので其処でコートというのを拵えましたが、(……)今日のコートは是れから到ったもので(……)。
(野口彦兵衛「衣服の新意匠」『唾玉集』1906)

アイデアマンだった東京日本橋の染匠大彦の主人、野口彦兵衛のこの証言を信ずるなら、女性の長合羽が、西洋名前をもった羅紗製のコートに代わられるようになったのは、おそくても1890年代初め(明治20年代初め)ということになる。

一方、橘町の大彦とは眼と鼻の呉服店白木屋は、1896(明治29)年になって、吾妻コートは当店が3年前に創案したものという宣伝をはじめた。もちろん『白木屋三百年史』(1957)はそれを鵜呑みにしている。

東コートについてはそのほか、三越呉服店出入りの仕立職加藤嘉兵衛の発明、という世評もあった。この加藤の弟子の中塚次郎は、1907(明治40)年に、東宮縫手として召し出されている(→年表〈現況〉1907年3月 「裁縫職人の光栄―東宮職奉仕」朝日新聞 1907/3/2: 6 )。

また、これはアイデアだけではあるが、1890(明治23)年頃に、[国民新聞]紙上で錦隣子なるライターが、その5年あとぐらいに流行しはじめた婦人外套――つまり東コートに近い意匠のデザインをすでに発表しているといい、その絵を再録している(国民新聞 1895/4/25: 1)。

さてその東コート――吾妻コートという書きかたもおこなわれたが、やがて東コートの方に落ちついた――あるいは単にコートだが、従来の女性の被布や道行、男合羽式の雨合羽と、構造のうえでの決定的なちがいはない。また、もともと被布は室内着でもあるから丈はさほど長くはなく、その点、コートは丈が長く、素材の点からは外出着として羅紗製であることが出発期の特色だった。

1896(明治29)年当時、すなわち白木屋の吾妻コート宣伝のはじまったころは、この女性外套を吾妻コートの名では呼ばない人もいた。

目下の大流行は言うまでもなく道行形婦人外套にして、交際社会に出るものは必ず之を纏う。……地は斜綾羅紗一番多く、紺または黒の綾セル地も見受けられる。此の流行の起源は花柳社会なりしが、今は一般に蔓延し……
(→年表〈現況〉1896年2月 「道行婦人外套」【家庭雑誌】1896年2月)

名前が先行する現代の情報社会とはちがい、モノが街にあふれていても、それがなんというものか知っている人は少ない、という現象だろうが、またひとつの憶測としては、白木屋の勝手なネーミングに対して、【家庭雑誌】の流行欄担当者の金子春夢が、いくぶんか反感をもったかとも考えられる。【家庭雑誌】ではそののちもしばらくの期間、吾妻コートという品名をつかわず、道行形婦人外套とよんでいる。またこのことは、初期の東コートが、かたちとしては、道行とよく似たスタイルのものだったことを教えてくれよう。

ただし初期の東コートについて、襟は道行形ではなく洋服風の糸瓜襟だった、という証言もある。コートがその時代のお客には耳遠かったにちがいない外国名を使い、洋服仕立てであることからいえば、洋服風の糸瓜襟から出発したこともうなずける。

最初の思いつきは昔の女雨合羽を工夫して、それに洋服の糸瓜襟を附け、羅紗又はセルにて仕立てたもので、おもに雨具塵除けの道中着であったものが、段々と進歩して、糸瓜襟が廃れて被布襟となり、道行襟と代わりて、遂に今日の半コートの隆盛時代となったのであります。
(東京和服裁縫研究会『実用裁縫秘訣』1921)

厚地の毛織物をつかうという点でも、東コートは一種の洋服、という受けとりかたがあとあとまで残るし、じっさい、男性の二重廻しとともに製作は最後まで洋服店だった。和裁職人がコートを仕立てる場合は、コート仕立てとして、細部で洋服裁縫の技術が用いられた。こまかいことではコート類の背縫いには、和服のようなきせをかけないとか――。これはコートの素材が薄地の絹ものに代わってもおなじだった。女学校の和裁でもコートは除外されることがふつうだったが、和裁学習のなかでのコートの裁断、縫製は、生徒たちに、また教授者にも、たくさんの考える材料を提供したろう。

羅紗地から出発した東コートだったが、すでに大彦のことばにもあるように、やがて上等の絹もの地をつかうことの方が、むしろふつうになる。在来型の衣服の特色を部分的に取捨しながら、東コート、あるいはコートは、デザインの上ではなんの拘束もない新様式の「和服」に成長していった。デパートはシーズンごとに、なんとかコートという名の新商品を宣伝した。そのどれをも女性たちは単にコートと呼んでいたが、それでも東コートの名は細々と残って、ときおりコート類の総称のようにつかわれていた。

1900年以後(明治末以後)のコートにひらけた新しい用途は、職業婦人のための仕事着だった。家のなかでの主婦の割烹着と、オフィスや売場での女性のコートは、昭和戦前期の女性への、ノスタルジーのなかに生きているのかもしれない。第二次大戦後までの女性は家庭でも職場でもたいていは和服だったから、割烹着もコート――ふつうは上っ張りと言っていた――も着物の上から着物をくるむように着た。割烹着もそうだったが、出勤してコートを着て店に出ると、娘さんも急に大人びてみえ、おばさんっぽくなったりしたそうだ。それは仕事着のコートがたいていはグリーンなどの無地ものだったせいもあるだろう。若い女性の着物は戦争が厳しくなるまでは長い振りをもっているのがふつうだったから、それを突っこむ袖は風呂敷包みのようになって、あがきが悪い、というので、見た目の甲斐甲斐しいほどには、着ている人からの仕事着コートの評判はもうひとつだった。

(大丸 弘)