| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 428 |
| タイトル | 女性雨合羽 |
| 解説 | 江戸時代には女性が外出するおり、雨や風をしのぐためにきものの外に重ねるものとしては、長合羽(なががっぱ)があった。しかしこれはお姫様が塗の御駕籠で御他行のときに、お供のお女中たちでも着るのに似つかわしく、民衆好みのものとはいえなかったし、身分上の制約もあった。 江戸の下町の女などは、真冬でも足袋をはかず、冷たいからっ風が吹いても、わざわざ胸をあけてああいい気持ちだとうそぶく、深川芸者の気っ風に染まってもいたのだ。あるいは、雨がふれば小気味よく裾をまくり、爪革のついた高下駄をならして小走りに水溜まりを飛びこえてゆくのを、粋だぐらいに考えていたかもしれない。『守貞謾稿』には、吹き降りの柔らかな京阪にくらべれば、江戸では女合羽が見られるように書いているが、用いるひとは少なく、あまりめだつ風俗ではなかったようだ。 明治に入ってからしばらくのあいだ、木綿の女物長合羽は、雨天用外衣としてわりあいひろく重宝されていたらしい。とりわけすこしずつ外出の機会がふえてきた山の手の奥様たちにとって、洋服系のコートが現れるまでは、着ている絹のお召しものを濡らさなですむような、ほかに適当な衣服はなかったためだろう。 寒さをしのぐためにきものの外に重ねるものならば、もちろん羽織があった。冬の綿入羽織には長い袂にまで綿を入れたから、たいていの寒さならこれでしのげた。厚綿の入った羽織や半天は庶民の必需品だったが、恰好のいいものではない。あまり恰好を気にしない老人や子供が、こんなダルマさんのようなすがたで日向ぼっこしている情景は、1920年代頃(大正末~昭和初め)まで見ることができる。しかし綿入羽織や綿入半天は、冬の氷雨の寒さから身は守れても、浸みこむ雨水には無抵抗だ。 羽織よりももうすこし上等で、一種の雰囲気をもつ外覆いとしては、被布もけっこうひろく、江戸時代から用いられていた。被布は和服としてはめずらしく、前がキモノ式のY字の打ち合わせにはなっていない。ごく小さい女の子からお嬢さま、それから年齢がかなり飛んでもう髪に白いものの混じる年輩の男女が着用した。夫をうしなって古風に髷を落とした切髪の老女というと、奥まったひと間の仏壇を背に、被布に身を包んで座っている――というのが、明治時代の新聞小説挿絵によくあるイメージだ。部屋着としても愛用されたということからいっても、被布ももちろん、雨や湿りけに耐えるような素材ではできていない。 女性の長合羽は合羽という名をもってはいても、ポルトガル語のカパ(capa)を受けついだマント形式は早くから失っていて、構造上は和服長着と変わりない。それに対して男性の合羽は廻(まわし)合羽、道中合羽など、マント形式を江戸時代を通じてほぼもちつたえた。女性合羽の場合は、合羽とはスタイルの特色を指すのではなく、雨着の意味になったのだ。 女合羽は長着の着物に対して裾に紐のついている点だけがめだった特色で、あがり框(かまち)で濡れた蛇の目をかたわらに立てかけ、身をかがめてこの小紐を解くすがたが女っぽい、という人もある。しかしそんな小さいことよりも、華やぎという観点からいえば、裾までくるんでいた外被をぬぎすてて、帯つきすがたをあらわす機会を生んでいることのほうが、ずっと大事だろう。考えてみるとそれまでの和服には、冬の洋装のように、グレート・コート(great coat)をサッと脱ぎすてて、そのなかに包まれていたドレスと、女性の姿態をあらわすようなシーンは、ほかになかったのだ。 しかし、すっぽりからだを包んでいたものをぬいで、帯つき姿をあらわすこの華やぎを、雨着の長合羽からうけついだ主役は、1890年頃(ほぼ明治20)年頃から見かけるようになった洋服系の女性コート類だった。女性コート出現以後の、長合羽の命脈をつたえる情報としては、1919(大正8)年のつぎの新聞記事が、あるいは最後かもしれない。 鉄色木綿に黒ビロウドの広襟付けた、道中合羽の婦人は、殆ど跡形も無くなって、その代わりに現われたのが道行です。(……)鉄色又は革色木綿はセルと代わって来ました。 ここで道行と言っているのはいわゆる東コートなど、女ものコートを指しているのだろう。また、その東コートなどが、雨合羽からの発展とみる見かたもあったようだ。 一般にコートといえば、女物長コートの事で、最初の思いつきは昔の女雨合羽に洋服の糸瓜襟をつけ、地質も羅紗又はセルを用い(……)。 けれども女の長合羽の魅力も、そうかんたんに忘れ去られることはなかったから、細々とながら第二次大戦前後までは、雨の日の盛り場などで、優雅な長合羽姿の女性を見かけることもときおりはあった。ひとつには、着る機会も少なく、そう傷むものでもなかったし、着なれたものと、着ている自分の身への心やりとから、ときには手を通してみる気になることもあったのだろう。 (大丸 弘) |