近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 427
タイトル 薄もの
解説

ことばどおり地の薄い織物を薄ものといい、当然夏むきの布地になる。加えて、肌が火照って汗ばむような季節には、あまりひっつかず、さらっとした風合のものがいい。盛夏用の薄ものにはそういった条件が望まれる。

素材として夏むきなのは、ある程度の強さをもっていて、吸湿、発散にすぐれている麻織物だった。高級品は一般に上布といわれる。ただし素材の名はしょせん商品名だから、麻風の質感をもつように仕上げられたものは、綿製でも絹製でも上布とよんでいた。本麻製で古くから名の通っているのは薩摩上布と越後上布だ。どちらもふつうは男もので柄も絣か縞。1877(明治10)年の三越の商品カタログによると、最高級品はひとり分で55円、これはフロックコート一揃えの価格と等しく、印刷局の女工さんの給与の、7カ月分をこえる。もちろんこれは絵に描いたようなぜいたくで、三越にも白麻の薩摩絣で3円50銭からあるらしいから(「酷暑中の流行」【時好 1907/6月】)、そんなに心配はいらない。

女ものには麻はこわすぎるので、絹地の明石縮(ちぢみ)が盛夏を代表する。こちらは白木屋のカタログを引用しよう。

薄地物で、他の気候の折のお召しのように、最も持て囃されまする品は、まず何と申しましても、明石でございましょう。それに続いては、透綾(すきや)、縞絽の類ででも御座いましょうか。薄ものと申せば、まず此の三種に止めをさしまする。
(【流行】(白木屋) 1912/7月)

明石縮はふつうは単に明石といっていた。両店のカタログには5年のひらきがあるが、白木屋のカタログのなかでも、「尚また男物としては、不相変(あいかわらず)薩摩上布、越後上布は流行を極めて居りまする(……)」としている。上布類がそろそろ飽きられてくるのは、ずっとあとの1930年代(昭和5年~)に入ってからのことになる。

そのほか夏羽織としては絽や紗が、上等な襦袢としては、とくに男は奈良晒のようなこれも麻製品が好まれた。

また、むかしから夏のきものは帷子(かたびら)、といわれてきた。帷子はほんらい麻の単ものをさし、絹ものの綿入である小袖と対照され、貧乏人の着る安直な衣料を代表した。しかしもちろん帷子は貧乏人だけが着るものではなく、木綿が普及する以前は一般に肌着、あるいは夏の衣料として上下ともに用いられた。1910年代(ほぼ大正前半期)頃、東京ではもうすっかり廃ってしまったが、上方では夏は帷子を着ているひとがまだ多い、という報告がある。大阪、京都の夏は東京、横浜とくらべると温度が高いためか、麻のきものは長持ちするから、上方人は昔風をだいじにしているのか、その理由はよくわからない。

薄地織物と一口にいうが、その構造にはちがいがある。上布類はもともと天然の細い麻糸を用いているが、平織りの地質はそれほど緻密ではない。

一般論として時代が下がるほど技術は向上し、極細の糸をつかってより緻密な組織が織りあげられるようになる。老人の口癖で、いまのものは弱い、昔のものは親子三代でも着られた、というのは品質が低下したのではなく、織物に対する需要の内容が変わったのだ。太めの糸で丈夫一点張りの織物など織りあげても、そんなものを都会の消費者のだれが相手にするだろう。概していえば近代の織物は、おなじ組織でも全体として繊細で、地薄なものが多めになっているといえるだろう。

組織が緻密で糸が混んでいれば風を通しにくいので、糸と糸の間隔を、組織のうえであけて風通しをよくしたのが捩(もじり)織物で、搦(からみ)織物ともいう。緯(横糸)一本通すごとに縦糸を1回交錯させる――もじる、捩る、あるいは絡める――のが紗、2回交錯させるのが絽ということになる。機仕掛けがめんどうなので、織物としてはもっとも高級なもののひとつ。ガーゼというのは反対に、組織的にはもっとも単純な平織りを、ただ糸の間隔をあけて粗く織ったもの。

これらとはちがって、布地の表面に凹凸をつくって肌にひっつかないようにして、サラッとした触感をだす方法がある。そのひとつが縮だ。組織そのものは単純でしかも堅牢な平織でいいのだから、大量生産も可能だ。木綿の縮の白いシャツが、夏の男物衣料の王座にのぼったのは当然で、1910年代(大正初期)からのことだ。

もちろん縮類はそんな安ものばかりではない。たとえば麻地の越後縮は夏の単衣としてはひろい需要があり、ちょうど秩父銘仙とおなじように大衆的にもちいられていた。上方で愛用されていた帷子も、ほとんどは越後縮だったそうだ。

明治時代の薄ものの話題のひとつは、女の夏羽織だった。そのころは、女が羽織を着て外出する、ということ自体に眉をひそめるひとがあった(→参考ノート No.432〈羽織〉)。

羽織すがたの女性がめずらしくなくなった1900年代以降(ほぼ明治30年代)になっても、 薄い、蝉のハネのような夏羽織は、女のべつの意味での僣上(せんじょう=おごり)と受けとるひとがあった。

下に着たきものの柄が透けて見える夏羽織は、結果としては、透けて見えるきものの流行の火付け役のようなはたらきをしたことになる(→年表〈現況〉1912年7月 「女性の夏羽織」読売新聞 1912/7/10: 10)。

上に薄ものを着て、それが下に着ているものや、からだの一部を透かせることは浮世絵の好画題だったくらいで、いまさらどうということはない。しかし文明開化の警察は江戸時代のお奉行所ほど寛大ではなかった。1920(大正9)年8月、警視庁は、紗、寒冷紗、ガーゼなどの薄もの衣料中、眼に余るものの取締りを各警察署に令達している(→年表〈事件〉1920年8月 「薄物衣料の取締」都新聞 1920/8/12:5 ほか)。

警視庁が動いたのにはそれだけの理由があったのだろう。1910年代後半(大正前半期)、たまたま欧州大戦の戦線拡大と並行して、というより思いがけない戦争景気に煽られるごとく、女性のきものに各種の薄ものが跋扈するようになった。

景気の上昇、すなわちぜいたくの風潮と、薄ものとがどう関係するのかはわかりにくいが、たとえばこんなことも考えられる。暑いさかり、今まで女性は単もの一枚の下に肌襦袢を着ているだけだった。それが肌襦袢の上にもう一枚、はでな長襦袢を着て、そのうえに透けるものを着て、長襦袢の柄をうっすらと見せるという工夫がはじまったと(→年表〈現況〉1929年5月 「初夏の流行しらべ」読売新聞 1929/5/3/: 3)。ただしこれに対しては、長襦袢はむかしこそ、土用のさなかでも汗をだくだくかきながら着ていたが、いまは改まった場合以外は着なくなった、という逆の意見もある(→年表〈現況〉1927年7月 「夏の長襦袢」【婦人画報】1927/7月)。

ともあれ、長襦袢を透けてみせるにせよ、より肌つきのものを見せるにせよ、透けるものを着るというおしゃれは、生活のゆとりに支えられた、大胆で刺激好きな、あそび心の生みだすものであることはまちがいない。

またひとつには、ノースリーブ、ショートスカートの、同時代の洋装の影響、というより競争心がありはしなかったか、という点に関して、当代の商業デザイナー、杉浦非水の意見を紹介する。

近ごろ和服を着る人の多くが、あまりに薄物を着過ぎていはしないでしょうか。むかしは薄物と云えば、絽、紗、明石という風に極限されていたものが、近ごろは、得体の知れない多くの薄物が非常に安直につくられる様になりました。それと、洋装をする人の思いきった露出的なナリに知らず識らず刺激されはするものの、さて和服の場合、腕や足を露出することはとても出来ない相談なので、つい薄物にして、肉体を透けてみせる様にするのではないでしょうか。
(→年表〈現況〉1932年8月 杉浦非水「薄ものに対するこれは私の意見です」読売新聞 1932/8/5: 9)

ここで杉浦も言っているように、1930年代に入ると、寒冷紗やジョーゼット、さては人絹明石や人絹ボイルなどという、ほんらい洋服地だった薄地の生地が、大胆に和服にも採りいれられるようになっている。

(大丸 弘)