| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 426 |
| タイトル | 女性和服 |
| 解説 | 近世から近代への風俗の変容は、なによりもまず大衆の生活水準の向上によって説明されなければならない。都市の中・下層生活者の、多くの点でまだ江戸時代をひきずっていたといってよい生活のすがたは、日露戦争(1904、1905)頃まではそう大きな変化はなかったろう。衣類は依然として庶民にとってはいちばんの財産だった。 その日暮らしの庶民は衣食住のなんにつけても不自由だが、いまの人といちばんへだたりのあるのは、着るものに金をかけなかったことだろう。ひとりの人間の持っているきものの数はすくなく、箪笥のおき場所もない貧乏長屋の住人なら、4、5人家族でみんなの着替えは行李ひとつで足りた。人情話の「双蝶々」に、左官の長兵衛のところに後妻にきた女が、小さな風呂敷包みひとつだけをもって来て「どうぞよろしく」と挨拶した、というくだりがある。一枚のきものを単衣にも、袷にも、綿入れにもして着る、というはなしは、それほどの誇張でもなかったろう。 そんな時代には、もちのよい、ということがいちばん尊重された。日本人がもうじゅうぶん豊かになった昭和に入っても、むかしの品物はいいねエ、あんたのおばあさんが娘時代に着たきものが、まだあんたにも着られるんだから――と、いまはなんの品物も悪くなったと嘆く母親がいた。こういうきもの認識には流行などの入りこむ余地はない。 きものをながくもたせるため、傷めない、汚さないようにとのいじましい努力は、和服の裁縫に独特な工夫を生んだ。胴裏、裾回し、掛襟、比翼などなど、モザイクのような構造が、きものはそういうものだと慣れた目で見るひとにはあたり前のことだが、そうでないひとには、色のくみ合わせに無神経な、貧乏くさい継ぎ接ぎに見えるのはしかたがない。 きものと風土との関係からうまれた和装の特色のひとつは襲(かさね)装束だ。 日本の伝統住居は南方系の木柱式構造のため開口部が多く、じゅうぶん部屋のなかを暖めることがむずかしい。そのため古代の貴族の日常でも厚く重ね着して、重ねる枚数の多さで暖をとる方法が習慣になった。この習慣は明治時代に三枚襲(かさね)、二枚襲などの晴着に受けつがれ、身分の、あるいは豊かさのシンボルとされていた。やがてアンダーウエアやコートの工夫、そして環境暖房の発達は、この鎧じみた襲装束を比翼のかたちに形骸化し、やがて消し去った。 特色の第二はからだに沿わない仕立と、おなじくからだに沿わないゆるい着方だ。 幕末の写真を見ると、働く男たちがいかに裸体に近いすがただったかがわかる。むし暑い日本の盛夏はじっさい、かたちのあるものを身にまとうには適していない。しかしきものを着なれた男なら、そのきもので、あるいは腕まくりし、肩でひきあげ、裾をはしょり、褄を帯にはさみ、胸をくつろげ、あるいは片袖をぬぎ、懐手(ふところで)した。女たちもまた、帯を低く結び、胸もとも襟もずっとゆるくくつろげて着ていた。きゅうくつに襟をつめて着ているのは女学生たちだった。そのくつろげた胸もとをもうすこし開いて、電車のなかでも赤ん坊に乳房をふくませる習慣は、ずっとあとまで残っている。 しかし結局、モンスーン地帯風のマナーは、ツンドラ地帯風の欧米式のマナーに席をゆずり、明治政府は違式詿違(いしきかいい)条例等を公布して非文明的な裸の露呈を徹底的に微視的にまで、目の敵にした。 もうすっかり過去のものとなった重ねきものや、これも嫌われて消滅した綿入は、かつての和服にとってはかけがえのない防寒対策だった。裸で団扇片手に晩酌を楽しむお父さんや、着くずれを少しも気にしないような女性のゆるい着つけは、近代人のセンスに受けいれられるものではないらしい。現代の和装は、かつては当然ゆるされていた多くのよさや、魅力を失ったが、それとひきかえに獲得したのは、贅沢さであり、またそれが生みだす華やかさだろう。 いま私たちが、三井呉服店、白木屋、高島屋などのカタログで見る高価な明治和服は、いったいどんなお客が相手だったのだろう。写真モデルのすべてが芸者であるように、最大の顧客は花柳界だったし、それ以外はひとにぎりの上流階級の女性たちだった。百貨店カタログにのるような衣裳を着る芸妓を、お座敷でまのあたりに見られる人はそう多くないはずだし、一方、上流婦人の方には、三井の大番頭日比翁助が嘆いているように、日本にはそれを着て出る「社交の場」、つまりファッション・ステージ(fashion stage)が未成熟なのであった(→年表〈現況〉1903年3月 「服装の意匠」国民新聞 1903/3/6: 3)。 いわば非現実の世界におかれていたような華やかな和装が、あたり前の女性の現実のものとなってゆく過程が、日露戦争、そして第一次大戦(1914~1918)以後の消費文化の発展だ。それは単純に人々のふところが豊になったというだけではない。増えつづける職業婦人たちがそのもっともあざやかな例だが、交通機関の発達、都会での遊楽や社交の場の増加など、一般に女性の外出の機会が増えたことが新しい環境的条件となる。 季節ごとに1枚か2枚のふだん着のほかには、袷と綿入れのよそゆきを箪笥のなかに持っている程度の暮らしであると、そのよそゆきとは、冠婚葬祭のための紋付ということになるだろう。しかし20年ぶりの女学校の同窓会に、黒羽二重裾模様の紋付きものは仰々しい。それでは夫のもと上司の還暦祝いのお呼ばれにはどうしたらよいだろう。訪問着が訪問服とか社交服という名であらわれだすのは1910年代の初め(ほぼ大正前半期)だが、10年経つか経たないうちに、もう少しくだけた第二訪問着、などという言いかたが見えるようになる。絵羽仕立て、付下げなど、昔ならごく一部の身分の人にしか許されなかったような贅沢も、ある程度までは大衆のものになった。 需用者の層と、着用機会のひろがりが、販売の量だけでなく、和服のデザインにも新しい展望を生んだようにみえたこの幸福な時期は、ながつづきしなかった。それは和装自体の着用機会が減りはじめたためだ。 すでに関東大震災(1923)前に、街で男性の和服を見ることはめずらしくなっていた。男の和服は家でのくつろぎ着か、一部の人の趣味のものになりつつあった。震災後、ことに1930年代に入るころ(昭和5年~)には、都会ではかんたんな洋装で日常生活をする女性が目立つようになった。一方、めっきりふえた職業婦人の多くは、一日洋服ですごした。学校から職業についた若い女性のなかには、きものをうまく着られないような人がでてくる。新聞の家庭欄に、上手なきものの着方――などという記事の現れる時代になった。 しかしそういう女性たちも、銀座に買いものにゆくときは、和装だった。外国映画も見なれている彼女たちは、自分たちの洋装にうぬぼれはもっていなかった。昭和戦前期の和服は贅沢品として特化した、といってよい。 それと並行して全国の織元の工夫も、技術の向上もいちじるしかった。一般に時代が下るほど織物の品質が落ちたと考える人があるが、それはまちがいだ。祖母の着た嫁入り衣裳を、孫娘がもう喜んでは着なくなったご時世にこたえ、製造家が耐久性を一義的には考えなくなったまでである。ある産地で織上げられた製品はそう日をおかずべつの産地に模倣される。織元は製品の差別化にしのぎをけずり、呉服屋の経験をつんだ番頭でも、御召と見まちがえるような銘仙などが、めずらしくなかったそうだ。 近世後期から19世紀末(明治中期)にいたる長い――100年余のあいだ、女性和装の見慣れた美は、大きな日本髪、白塗りの厚化粧、下駄、白足袋、厚い裾ぶきをみせた曳き裾、女大学風にしつけられた身のこなし、などなどのセットとして構成されていた。 なかで大きな要素だった曳裾は、日常的には明治20年代に消え、そのすこし前からは腰のはしょりが定着し、女の胴は太い棒のようになった。おなじころから、帯の柄をみせることが主眼になっているお太鼓結びが、結びようとしてはより自然な、ほかの結び様から突出し、女のすがたを立体的には無趣味なものとした。20世紀に入ると、20年あまりで、混んだ電車には乗りにくい日本髪と、明るい照明の下では化けものじみる白塗り化粧は消滅した。それと時間をおかずに、バタ臭い身のこなしのモダンガールが、丸の内や銀座の街路樹の下でも見られるようになった。 (大丸 弘) |