| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 423 |
| タイトル | 女性ズボン/もんぺ |
| 解説 | 1930年代の初め(昭和初め)、横浜港の荷揚げ人夫のなかに、ひとりだけ若い女がいた。痩せがたで色白だったが肩が怒って骨格たくましく、背も高く、沖仲仕にまじっていて仕事でヒケをとるようなことはなかった。仲仕は作業中たいていは褌(ふんどし)ひとつだが、彼女はいつも汚い長ズボンをはき、髪は耳のあたりで切っていた。冗談を言いあうようなときは彼女も相手になっていたが、それ以上のちょっかいを出すようなまねはだれもしなかった。腹がたてば殴りあいをすることなど、彼女はものとも思わなかったからだ。 港湾で働く人のなかには、走り使いの雑用をする少数の女性がいて、艀(はしけ)の甲板のせまい縁を歩いたり、また常時海風がつよいということもあって、ズボンをはいている女性は年齢に関係なく何人かいた。この時代横浜のようなハイカラな街でも、女性のズボンすがたはめずらしかった。そのなかでも女仲仕の彼女は、上着を片っ方の肩にかけ、くわえ煙草で海岸通りをのし歩いていた。 30年代の女性ズボンはまだ男装のうちだった。濃厚サービスで有名な大阪のタンゴダンス・カフェには、洋装をしたり、セーラーズボンをはいたりした芸者がいたそうだ。「いずれもが髪は日本髪のままで、タンゴにあわせてダンスをするという」(→年表〈現況〉1929年2月 「大阪芸者のタンゴダンス」大阪朝日新聞 1929/2/13: 13)。これは男装というより、仮装といった方がいいかもしれない。 女性のパンツ――ズボンが排斥されたのはわが国だけではない。ハリウッドでも、ドイツから来た人気女優のマレーネ・ディートリッヒが、映画のなかでみせたズボンすがたが問題になった。アメリカの国際デザイナー協会は、「男性と身体の構造を異にするかぎり、女性は男性とおなじ服装をするべきではない」という裁定を下している(→年表〈現況〉1933年3月 「流行・女のラッパ・ズボン果して問題となる―ディートリッヒが音頭取りで」東京日日新聞 1933/3/14: 8)。 ただし欧米では、19世紀末に近東から入ってきたパジャマが、ナイトウエアとしておもに10代の女性にひろく用いられていたし、またその展開としてビーチウエアとしても利用されていた(→年表〈現況〉1932年5月 「ビーチ・パジャマ」大阪朝日新聞 1932/5/12: 5)。したがって当然、そのファッションはわが国にも入ってきていた。しかしどちらのパジャマも、それが日常着としてのズボンとむすびつくものとは、だれの意識にもなかったろう。 しかしこの時代は、女性のズボンにとっては追い風だった。ナチスの台頭と並行するように、世の中もファッションも軍国調にむかっていた。30年代後半(昭和10年頃)になると、肩の怒ったタイユール仕立て(男仕立)が、オートクチュールでも主流になっていた。 日本の場合、同時代の支那服――チャイナドレスの人気も、女性のズボンへの抵抗を和らげていたかもしれない。 もんぺの存在、またそのことばが、東京のような大都会の、一部のひとに知られはじめたのは1920年代の後半(大正末)だったろう。民俗学者の宮本勢助が「山袴誌」を書いてもんぺを礼賛したのが1927(昭和2)年。この宮本の文章も、またその翌々年の【婦人之友】の、「この冬はもんぺを使いましょう、立ち働きの改革ができるでしょう」という記事も、田園回帰の香りのする生活改善の提案であり、戦時体制の匂いはない。 それが1937(昭和12)年、日中戦争開戦直後の時点ではつぎのような論調に変わる。 通州事件のような経験は、改めて日本女性の服装改善を緊急のものにさせる。その中で山村の野良着であるもんぺが、各方面から推奨されている。たとえば大妻コタカ女史は全国から二〇種ほどのもんぺを収集し、よりよいもんぺの創造につとめている。 通州事件というのは、1937年7月の盧溝橋事件の2カ月後に、通州の日本人居留民300人ほどが、守備兵もろともが中国兵によって虐殺された事件だ。ほとんどすべての日本女性の死体の、暴行のあとの歴然としている現場写真が内地の日本人に衝撃を与えたが、それが和服の構造にどれだけ関係があったか。 もんぺは敗戦の年をはさんだ1940年代の10年間、女学生をふくめた成人女性のあいだに浸透した。ほとんどの都会育ちの女性にとっては初体験の衣料だったので、最初は隣組などに指導者が招かれ、夕食後の製作講習会が催されたりした。もう物のない時代に入っていたし、あり切れをつかって、というのが建前でもあったので、しまいこんであった上等の御召仕立のもんぺ、などというのもよくあったという。 おなじもんぺとは言いながら、はいた恰好は十人十色だった。それはどんなきものでもおなじこと、という以上に、その差が大きかった。ひとつには、野良着のもんぺには構造のうえで何通りかの種類があり、そのなかから街着としての選択の問題があった。またそのはき方の問題もあったろう。まだ空襲もないころには、ふつうにきものを着て、お太鼓の帯をしめた上からもんぺをはくひとも多かったからだ。しかし洋服を着なれた女性などには、もんぺを嫌うひともあり、そういう女性はあの仲仕のように、人目も気にせずサッサとズボンになった。 日中戦争初期の1938(昭和13)年、[朝日新聞]に最近の風俗時評としてこんな記事が載った。 パーマネントにズボン姿で街を歩くとは、相当に気丈な娘さんだ。ドイツでは最近ズボンをはいた女性がいくらでも街頭にいるそうだが、女性のズボンは日本ではまだまだ一般には、作業服としてしか通用しない。第一、腰の線の締まらない日本女性には似合わない、というのが本当のところです。 この意見は、高名な洋裁家の某女史のものだが、過去に外国のスタイルが日本に入りはじめると、洋髪のときも、耳隠しのときも、パーマネントの場合でも、日本の専門家のうちには判で押したように、日本人には似合わない、ときめつけるひとがあった。 しかし5年後の実情はつぎのように変わっていた。 もんぺの実用化と並行して、洋装のズボンの進出は最近とくに目覚ましいものがあります。銀座あたりにさえ颯爽たるズボン姿を見かけるようになり、如何にも戦時下に相応しい緊張した精神の現れの一つとして、非常によい傾向だと思います。 1943(昭和18)年といえば、太平洋戦争も末期、本土空襲も間近だった。女性のほとんどがヴァラエティ豊富なもんぺ姿であったのは確かだが、若い人のなかには、応召した父親や、兄弟のスーツを改造したらしいものをふくめて、けっこうズボン姿の人がいた。平和の時代とくらべて、消えたのはスカートだけだった。その時代の裁縫界ではもっとも影響力のあった大家のひとり、東京女高師の成田順教授の女性防空服に関する発言のなかにも、和服にはもんぺ、洋服ならばズボンを原則とし、男子のズボンを女性のものに改造する場合の、細かな注意が述べられていた(→年表〈現況〉1943年3月 「平生着がそのまま防空服」朝日新聞 1943/3/21: 8)。 とはいえ空襲下の、爆弾や焼夷弾の炎の下を逃げまどう日々のなかで、もんぺ姿は彼女たちを支えるなにかの力であったのかもしれない。1945(昭和20)年の8月に戦争が終結しても、女性たちは彼女たちを支えてきたもんぺを、簡単には捨てようとはしていない。 この戦争の間日本の女性は幾多の美を発揮した、不幸力及ばずして今日の事態にはなったが、戦い終わったとはいえこの間に培われた日本女性の美はあくまでも伸ばして行かねばならぬ、この戦争は日本女性にモンペという簡素な美を生みだした、これはいつまでも日本女性がこの戦争を深く銘記する意味においても、いつまでも残したい姿である、モンペにはまだまだ改善し工夫すべき余地はあるだろう、しかしこれを新しい日本の再建へ起上がる女性の服装として、今後も持ち続けていきたいものだ。(大丸 弘) |