近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 422
タイトル 簡単服/アッパッパ
解説

1920年代後半(昭和初頭)に、簡単服とか、アッパッパという名で普及していった一種のスタイルは、ハウスドレス、または家庭着というべきものだろう。ほんらいは人前に出る恰好ではないが、縁台の夕涼み、近所の買いもの、それに銭湯くらいなら着てゆける。しかし電車に乗ってゆくような遠出はできない、というのがその着用範囲。

1920年代初め(大正末~昭和初め)には、着やすくてかんたんに手作りもできる、家庭着への関心が生まれている。1920年代初めから、ということは大正期には、大都会では子どもに洋服を着せる親が多くなり、そのなかのかなりのパーセントが母親の手づくりだったろう。この時代まで、家族の着るものは、主婦が、ときには女中さんといっしょになって、手づくりするのがふつうだった。その一方、【主婦之友】や【婦人倶楽部】には、毎月、かんたんな子ども洋服の作りかたの、かゆいところに手のとどくような説明が載っていた。ズロースやかぶりシャツなどの下着からはじまって、ときには折衷服まがいのいくぶん不器用な洋服でも、子どもは文句もいわずに着てくれる。そういう実績が、関東大震災後の、女性の家庭洋装の下敷きだったろう。

婦人雑誌にはもちろん、魅力的な婦人家庭着の記事も多かった。そのなかには高名な婦人運動家の市川房枝が、アメリカのデパート、マーシャルフィールドの既製服広告を紹介したものもある(→年表〈現況〉1922年5月 市川房枝「米国から―先ず各自の家庭で主婦が洋服を着初めたらどうでしょう」読売新聞 1922/5/26: 4)。ジャシカ・デイヴィス著『アメリカの既製服産業の奇跡』(1969)にもみるように、アメリカの既製服産業の発展はめざましいものがあった。ワンピースということばも、そのなかから生まれている。しかしそれだけに、商品であるその家庭着は、日本の家庭婦人がそのまま着られるようなものでも、まして自分の手で作れるようなものでもなかった。

アッパッパの直接のヒントになり得るようなアイディアも、1920年代(大正末~昭和初め)にはいろいろと紹介されるようになった。たとえば1926(大正15)年の夏に、[国民新聞]はつぎのような説明をつけて、一種の家庭着を提案している。

真夏の間台所で着る簡単な家庭服、和服浴衣の廃物を使って、だれにもやさしくできる。
(国民新聞 1926/7/28: 5)

試作品の写真を見るとまさにアッパッパだ。

考えなければならないのは、この時代の女性たちが、人前に出ないときに着るものとして必要な条件はどんなことだったか、という点だ。洋服を着た経験のいちどもない女性も多かった。そういう女性は第一に、着物をあたまからかぶって着る、ということに慣れていなかった。すこし年輩の人になると、身体の形にフィットさせるという洋服の基本には関心がなかったし、むしろいやだったろう。しかしせめて夏の暑いあいだ、できれば帯をしめることからは免れたかった。どんな幅の狭い帯でも、胴にぐるぐるとものを巻くことからは。

こういう条件から自然にうかんでくるのは、たとえば前で浅い打ちあわせをもち、場合によっては衽(おくみ)も襟もつけず、袖は身頃から裁ちだしの三分袖、つまりいわゆるキモノスリーブ。胸と裾の2カ所くらいに紐をつける、和服とも洋服ともいえないような構造だ。

これに近いデザインは、寝間着として提案されている例がある。また海浜着や、病人衣としての提案にも似たものがある。しかし構造も細部も、利用したもとの古着物や、縫っているうちにふと思いついた工夫によって、いろいろに違ってくるだろう。簡単服/アッパッパにはひとつのきまったデザインは存在せず、デザインはいわば不定型で、観念的という言いかたもできるかもしれない。

いずれにしても、幼い子ども相手にせまい家のなかで家事をしたり、庭の朝顔に水をやったり、ゴミだしに出たついでに近所の奥さんと立ちばなしをする、といった日常で、人目を気にせずに着られて、かつもっとも手軽に作れる着物が、アッパッパであり、簡単服であり、ホームドレスであり、つまり名前などはもたないのだ。

アッパッパが話題になったのは、往々その街頭での着こなしに、和服の常識にも洋服の常識にもなかったキッチュさのあったためもある。

お手軽な腰巻一つの上に寝巻風の長い編みシャツを被って、平気で往来を歩き回る、而も結いたての銀杏返し、念入りのお化粧仇なる雁首をすげた所は、どう見ても不調和だ。
(→年表〈現況〉1918年8月 「夏の東京」国民新聞 1918/8/6: 4)
郊外の若い妻君たちが、腰巻の上へすぐに洋服を一枚引っかけて、素足で下駄をはいて、買物や散歩に出て歩くのを見るとこれもゾッとします。
(→年表〈現況〉1928年7月 小口みち子「パアパアの姿」読売新聞 1928/7/23: 夕3)

1920年代後半(昭和初め)はいわゆるエログロナンセンスの時代といわれる。その芽生えは1910年代後半(大正前半期)の、浅草オペラや軽演劇にみられている。20年代の自由奔放さは、大戦後の欧米における、いわゆるローリング・トゥエンティーズ(狂乱の20年代)の余波をうけていることにまちがいはないが、わが国はわが国としての事情――風俗における明治的リゴリズム(厳格主義)がようやく疲れて、投げやりな気分さえ見えはじめた時代、とも考えられる。

具体的な現れとしては、いままではひたすら忠実に学ぶものだった洋装を、ほんとうはこうすべきです、などを気にもせず、勝手に自分の好きなように利用する、という態度だ。洋装アナーキズムともいえるし、ふてぶてしくて、また素直な感覚だ。日本髪でアッパッパを着ているとか、下にはいている赤い腰巻を見せるとか――(→年表〈現況〉1932年7月 瀬長良直・阿部金剛「アッパッパ論」【婦人画報】1932/7月)。そういうキッチュさが、新しい価値観をうみだす例はめずらしくないが、アッパッパの場合は、和の要素の方がもう消えてゆく運命だったため、そういう力はなかった。

アッパッパ式の衣服にあれだけ需要があった理由のひとつは、洋服のアンダーウエアの普及がいまひとつだった、という事情もあるだろう。アンダーウエアの普及では下ばきやブラジャーの導入がよく話題になるが、それといっしょに1930年代(昭和戦前期)には、シュミーズ、スリップが若い女性を中心に受けいれられていた。本来的には、とにかくアッパッパは上着であり、シュミーズは下着で、シュミーズでゴミ出しはできないはず――しかし、たとえば多くなりはじめた文化アパートの、六畳一間の生活では、暑いあいだスリップ一枚で共用廊下を歩き回る奥さんはめずらしくなかったし、夕涼みの縁台で、シュミーズのおばさんが団扇をつかっている場末の土地はザラにあった。

1930年代半ば(昭和10年前後)になると、アッパッパはむかしの夢、といった家庭欄の記事が目につく。既製服の発達は手ごろな値段で、見栄えのよい夏のワンピースを提供するようになった(→年表〈現況〉1937年5月 「日本女性に相応しい夏の色を」東京日日新聞 1937/5/4: 6)。

(大丸 弘)