| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 421 |
| タイトル | 女性下ばき |
| 解説 | 開化以前、女性の下着のうち下半身を覆うのは腰巻だった。小紐のついた巻きスカートなのだが、野卑な言いかたでは女の褌といい、小説などに、「腰巻(ふんどし)」とルビの振ってあることもあるから、裏長屋の世界などではそんな言い方もあったのかもしれない。中以上の家庭では、お腰、というのがふつう。 腰巻のほかに、蹴出し、二布(ふたの)、ゆもじ、湯具、湯巻、という言い方がある。湯具、湯巻は古風なことばだが、明治のはじめにはまれには腰巻とおなじ意味で使っているようだ。三遊亭圓朝の『名人くらべ(錦の舞衣)』(1893)のなかに、「今日は大めかしでいながら、湯巻(ふんどし)の汚いねえのを締めたのはふしぎですね」という速記の文章がある。 ゆもじはもともと湯具の女房ことばで、明治時代にも腰巻の上品な言いかたとして用いられていた。二布もまた古風な表現で残っていた。 蹴出しについては時代により、土地により、人によって、理解にズレがあるようだ。博文館の『衣服と流行』にはつぎのようにのべられている。 女性は肌に華やかな長襦袢を着るのが本来いなのだが、人には見えないところなので、上は半襦袢、下は蹴出し、の二部式としたもの。表地は友禅、緋縮緬とし、裏は紅絹、甲斐絹などとする。蹴出し一枚で、上の半襦袢はさまざまのものと組みあわせることができると。 この説明によると、蹴出しは腰巻の一種ではあるが、そのなかの上等な品をさし、実用的な腰巻の上に重ねて装飾的に用いたりもしたらしい。なお、湯巻に「ケダシ」とルビを振っている例もある。 古代の高貴の女性の殿上装束では、襲ねのいちばん内側に下袴(したのはかま)を用いていた。それとほぼおなじ形の袴を、身分の低い女官、下部たちは中近世を通じて用いていて、いわゆる緋の袴もそのひとつで、これは下着ではない。だから明治中期になって女学生の袴に異論を唱える人のうち、舞台芸人のような卑しいすがたと見るひとと、宮中女官をまねた畏れ多いすがたと見る人の二様があった。 腰巻、蹴出しのたぐいでは股間を包むことはできない。1887(明治20)年、隅田川にかかる厩橋辺に漂着した若い女性の水死体は、 余程覚悟を極めたものか、手拭いにて割ふんどしをなし、白縮緬の湯具を後ろ前より二重に結びたるは、死に恥を曝さぬ死出の嗜みと覚しく(……)。 とあって、女性が股引式の下ばきをはかなかった時代の心がけがうかがえる。 女性に襠(まち)つきの下ばきをはかせようというのは、明治時代を通じての社会教育的なキャンペーンだった。すでに明治中期には、一部で既製品も販売されてはいた。1890(明治23)年の、東京芝兼房町の梶原男装商店が製造し、南伝馬町の小島屋が一手販売するフランネル製の衛生紀久股引で、防寒用、またなぜかコレラ予防用と記され、値段は女用23銭とある(都新聞 1890/10/11: 4)。 また1896(明治29)年の、東京日本橋の西洋小間物商、菱屋商店の新聞広告には、「毛織メリヤス 和服下御召用 御婦人肌着、股引」とある(読売新聞 1896/12/21: 7)。西洋小間物商なので、あるいは輸入品なのかもしれない。 この時代の上流婦人は、帝国ホテルの舞踏会や華族邸での園遊会などに、洋装することもしばしばあった。洋装の多くは外国製のワンセットだったから、ランジェリー類も含まれていたにちがいない。しかしそういうセットのなかの一点を指示どおりに身につけるのではなく、「和服下御召用 股引」(→年表〈現況〉1898年1月 「森田屋商店広告」時事新報 1898/1/1: 44)とあることに注目したい。それは下ばきをはくことの理由と必要を、積極的に理解していたと考えられるからだ。その後、女性の和服用下ばき製造販売の流れは、地方にもひろがっている。 下ばきをはく必要のおもなものは、第一に腰から下を冷やさないためと、第二には和装はとくに前が開きやすく、その不安から動作も不活発になる、という点だった。また第二の理由と関連して、女性が貞操を守るため、ともいわれた。1881(明治14)年という早い時期に、他家の飯炊き奉公を14歳から20歳の今日までつづけてきたひとりの娘が、眠るときはかならずメリヤスの半股引をはいて、夜這いの男どもから身を守ってきた、という新聞記事がある(読売新聞 1881/1/19: 3)。 下半身を冷やさないため、という点に関しては、「折角多年の習慣で、皮膚を強固に鍛えて居るのを、今更何もわざわざ弱くするにも及ぶまいではないか。それとも、健康よりも見栄が大事か」(→年表〈現況〉1917年12月 横手千代之助「通俗講話」東京日日新聞 1917/12/11: 5)といった異論もあった。第二の問題は袴をはくことによってもさしあたり解決できるのだが、娘の寝相が悪くなったのは束髪がはじまってから、行儀の悪くなったのは袴をはくようになってから――という批判もみられる。女らしさが身につくのは羞恥心からという、あの考えかただ。 震災後にもなって、もう四半世紀以上も前から、出来合の下ばきが簡単に手に入る商品環境であり、女学校のなかには、1919(大正8)年の東京女高師付属女学校のように、生徒のすべてに下ばきをはかせる、ということもおこなわれていた時代だったのだが(→年表〈現況〉1919年5月 「女学校の下穿奨励」読売新聞 1919/5/26: 4)、その一方では、列車から飛降り自殺した女性の報道に、「猿股を穿いた耳隠しの美人」といった書きぶりがなされている(山形新聞 1926/2/26: 3)。これはあるいは山形県酒田という、地方の事件だったためだろうか。 この間、下ばき自体の改良も進んでいる。1910年代、1920年代(ほぼ大正前半期~昭和初期)の婦人雑誌、新聞の家庭欄には、たくさんの女性用改良股引、改良猿股のアイディアが見いだせる。この時代の低い帯の位置であると、排便の際下ばきをぬぎにくく、ぬげばまた帯をしめ直さなければならないとか、当時の女性の家庭裁縫の技術では、襠つきの下ばきの製作はむずかしい――などの障害があったのだ。 しかしそれらの障害とあわせて、下ばきのようなものをはくということ自体への抵抗、ないし羞恥も大きかったろう。ヨーロッパで下ばきが、最初は娼婦たちの用いる下品なもの、という通念のあったことと共通する女性の感情がある。石坂洋次郎は、旧制高校、女学校の時代を背景とした小説『青い山脈』(1947)中で、芸者駒子に、あたしは大和撫子なんだからパンツなんてはきませんヨ、と言わせている。 下ばきをはくことによって腰を冷やさない、という利点は、1920年代(大正末~昭和初め)に人気の急上昇した新製品、毛糸の都腰巻によって先どりされたかもしれない。下ばきの普及の一つのステップは、1923(大正12)年の関東大震災だったことはたしかで、そのあとではキャンペーンも積極的だった(→年表〈現況〉1932年x月 〈白木屋火災以前の女性したばきの状況〉(「和服用の婦人下穿の作り方」 【婦女界】1926/10月;「腰を冷やさぬ真綿入りズロース」読売新聞 1930/11/6: 5;「使用価値満点のホームズロース」【婦女界】1932/6月 など))。 (大丸 弘) |