| テーマ | 素材と装い |
|---|---|
| No. | 413 |
| タイトル | 毛糸編/セーター |
| 解説 | 毛糸編物も1880年代(ほぼ明治10年代)、あるいはそれよりもうすこし早くから、在留外国人の夫人連が、手先が器用で、新奇なものへの意欲の旺盛な日本女性に手ほどきしたのが、最初だったろう。すでにそのころの[東京日日新聞]は、芝の狩野しまなる女性が婦人編物会をつくり、入会者が多く、そこでの製品を売りさばく店もできている、と報じている。 1887(明治20)年という年は、いわゆる鹿鳴館時代の終息期にあたり、2、3年前の束髪の流行にもかげりの見えはじめた時期だったが、「すこし蟹文字でも覗く女は、束髪に毛糸の肩掛でもせねば時候遅れの様に心得ている(……)」(→年表〈現況〉1887年1月 「お嬢様の失望」 読売新聞 1887/1/9: 2)という観察もあるから、毛糸製品を身につけることも、今風の装いだったらしい。 毛糸編物の流行のはじまりは1885(明治18)年頃で、「束髪ひろめの会」の運動のいちばん勢いのあった時期に一致している。その後2年たって、[時事新報]は毛糸編物に対しこんな批判をしている。 近来文明のお嬢さん方が毛糸のお細工物に熱心せられ、学校に通ってはニッチング、女教師を雇うてはニッチング、さてその出来上がりたるものは何々と尋ねるに、肩掛 襟巻手袋頭巾より靴下の足袋に過ぎず、毛糸の小売の高きこと之を買うて物を作れば 其の物の価は既製の舶来品を買う方がよっぽど安い位にて、お嬢さんの手間は丸損で 未だお釣りが出るとは、随分気の引けたお慰みと申すべし。 [時事新報]は1882(明治15)年の創刊後まだまのない時期で、おそらくこの記事は、社主である実利主義者、福沢諭吉の考えを反映しているのだろう。 女性の手芸は実利という観点からみれば、いつの時代でもその答えは煮えきらない。江戸時代の御殿女中、大商人の家庭の女たちのように、お慰みとわりきって愉しんでいた押し絵、摘み細工、刺繍など、暇潰しのお細工物あそびであるなら、それはそれでよい。事実、毛糸編にも最初のうちは、菊や牡丹、あるいは鶴亀などを、毛糸の柔らかさを生かしてコテコテと飾りつけた、巾着や涎掛などが喜ばれていた時期があった。 手芸品というものは必要以上の飾りか、さもなければ手箱に秘めて置く弄びものとばかり心得た癖が、毛糸というものの性質を、斯う見違えた取り扱いをしていたのだった。 毛糸編物のこうしたお細工物志向は、1890年代末(明治30年代初め)以後になると、絹糸の使用へと関心を方向転換していった。 一方、福沢学派にはからかわれながらも、より実生活的な毛糸編物も、その利用も、順調に発展していた。世紀末になるころには、「西洋より輸入されたる物品にして、日本人の手に渡りたるのち、日本的意匠を加え却って原品に優るものを作ることあり、毛糸編物の如きはまさしく其の一つなり」とまでいわれている(→年表〈現況〉1896年7月 「毛糸編物」報知新聞 1896/7/7: 1;7/9: 1;7/11: 1)。 [報知新聞]は、毛糸編物が日本で発展した大きな理由は、1890(明治23)年頃にわが国で毛糸の染色法を考案し、それまでの黒、樺色、肉色ぐらいしかなかった輸入毛糸に比べて、どんな色でも染めることができるようになったため、と指摘している。もっともそうはいうものの毛糸衣料の用途はショール、襟巻、手袋、靴下などの防寒用副装品か、シャツ、股引、ズボン下などの下着中心だったようだ。いくぶん理解に苦しむのは、最初のうちの毛糸衣料のほとんどが、上に着るものよりも下着、肌着として用いられていたらしいことだ(例:伊東洋二郎『絵入日用家事要法』1889「第11章 編物 肌着(しゃつ)の編み方」)。 毛糸編物は日露戦争前後からやや人気を失ったらしい。世が大正とかわってまもない時期の新聞はこんなふうに書いている。「毛糸編物は一時は非常な勢いで流行しましたが、この七、八年とんと廃れてしまいました。しかし中流以上の婦人および西洋人達の間には、依然として行われています。」(→年表〈現況〉1914年12月 「廃れた毛糸編物」読売新聞 1914/12/12: 5) この1914(大正3)年にはじまった欧州大戦によって、毛糸の輸入が乏しくなり、それも毛糸編物にとっては逆風だった。しかし戦争が終わった1920年代(大正後期~昭和初め)、毛糸編物、というより毛糸衣料はいよいよ自分たちの時代を迎えることになった。 震災(1923)後、授産場などでの奨励で、以前にも増して毛糸編物が大流行し、袂から編み棒を見せていない女学生はないようになったが、最近は男にも移り、上野や東京駅で客待ちのタクシー運転手まで編物をしている(→年表〈現況〉1923年12月 「タクシー運転手まで編物」都新聞 1923/12/11: 9)。 【婦人之友】をはじめとする婦人雑誌にも、毛糸編物の特集や付録が多くなった。そのアイテムをみると、赤ん坊や幼児の衣料、せいぜい少女向きのショールやチョッキ、というところが多い。1920年代後半(ほぼ昭和初め)に入るころには、成人のセーターやチョッキ、なかには男子用仕事服、と称するカーディガン風の上着のようなものさえ取り上げられている(【主婦之友】1928/1月)。家族の着るものは女の手で、という気風のまだつよい時代だったから、裁縫の専門家のなかには、紳士服でさえ家庭で仕立てることを勧める人がいた。それにくらべれば毛糸編の衣類はまず無難で、お父さんも安心しただろう。 この時代、毛糸衣料がにわかに増えた理由のひとつは、従来の手編だけでなく、各種の編機が考案されて、生産の能率がグンと向上したためもある。機械編物のなかには極細糸をもちいて、綿メリヤスと区別がつかないような質感のものさえあり、そのためかえって手編のざっくりした味が愛される、ということにもなった。 毛糸編機は小型で値段も安かったから、家庭でも購入され、地域で講習会が開かれて主婦たちの集いの機会にもなった。しかしそれ以上に毛糸編機は女性たちに大きな内職のチャンスも提供した。その一例として1926(昭和元)年に、横浜市は、家内工業振興の一手段として毛糸編物の普及をはかるため、市勧業課主催で文化編物器使用の講習会をひらいている。5年後の1930(昭和5)年末の資料によると、市内に15支部、353人の会員を擁し、その製品は市内ばかりか、東京、大阪、北海道の主要都市の百貨店等に大量に卸されている、と(横浜商工会議所『横浜における中小工業』1931)。この時期、毛糸衣料は各地で家内工業ないしは内職的に生産され、横浜市の生産額は東京、大阪の両府に次いでいた。 「いよいよやって来たスウェーター時代」(→年表〈現況〉1936年9月 東京日日新聞 1936/9/9: 8)という見出しが家庭欄のトップに躍ったのは昭和10年代に入ってすぐのことだった。セータースタイルがもたらしたのは、柄で着る、のではなく、色に対するきびしい選択眼と、からだの自然な凹凸を、そのまま女っぽさ、男っぽさとしてうけいれる鑑賞眼だったろう。 (大丸 弘) |