近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 410
タイトル 人絹/スフ
解説

戦前に実用化していたいた合成繊維は、天然の繊維素(セルロース)をいったん溶液とし、それをふたたび糸としてひきだす、半合成繊維とか、再生繊維といわれるものだった。

1930年代(昭和5年~)には、絹に代わって長繊再生繊維が市場にひろがりはじめた。レーヨンということばは知られてはいたが、たいていの人は人絹といった。商売人は人絹ということばの悪いイメージを避けて、レーヨンが2割ほど混じっています、などということが多かった。

短繊維のスフが入ってきたのはそれよりずっと遅れ、もう日中戦争のはじまっていた1937(昭和12)年だ。スフは木綿の代わり、というのだった。この年の暮れ12月、〈綿製品ステープルファイバー等混用の規則〉が商工省令として公布された。人絹の場合とちがい、スフはいやも応もなく、立ち入ってきたのだ。たまたまこの年の、帝国人造絹絲(現・帝人株式会社)1社の人絹総生産額は27,000トンに達していて、フランス1国の生産量にならんでいる。

そのフランスのシャルドンネがレーヨンの特許を取得したのは1855(安政2)年だった。だから開化後の日本人のなかには、最初から人造絹糸の存在を知っている人々もいた。その時期のロンドン駐在日本領事による報告では、「未だ本邦営業者の利害に関する程の発達を為したるものに非ざるなり」と、ひたすら絹糸の敵――という観点からの観察、判断が優先している。これはのち1930年代(昭和戦前期)の、デュポン社によるナイロン発明のときと変わらない。

1918(大正7)年に、親会社から独立して帝国人造絹糸社が発足したころには、かなりの量のレーヨンを外国、とくにレーヨン先進国であるフランス、イタリア、ドイツなど欧州諸国と、アメリカから輸入していた。すでに欧米では靴下の90~95パーセントはレーヨン製、というニュースも入ってきていたのだが、1920年代初め(大正後期)の新聞でも、時代の方向としてこれを積極的にうけいれるというよりも、あいかわらず、「日本人を脅かす人造絹糸 原料はパルプで綿糸より安い 悲観はせぬが相当警戒(農商務省当局)」(→年表〈現況〉1924年11月 「日本人を脅かす人造絹糸」報知新聞 1924/11/1: 夕7)といった見方が目立つ。

人絹の魅力はなんといってもその安さだった。その点は外国でも変わりない。1928(昭和3)年のデュポン社の調査では、レーヨン製のアンダーウエアをえらぶいちばん大きな理由として、50パーセントの女性が値段の安さを、25パーセントの女性が外観のよさを挙げている。実用的な安物、という評価はかなり長い間、レーヨンから離れなかった。

日本の場合、1920年代末以降の十余年(ほぼ昭和一桁期)が、人絹の発展期だったといえよう。昭和はじめの大不況時代、金ぐりに窮した各地の中小機業者が、人絹織物への転換に生きる道をきりひらいていた。絹や木綿の機業地のなかでも、高級品を製造し、資産の豊かな八王子、伊勢崎、泉州、三河地方などはその確固たる地盤を保つことができたが、中・下級品を製造し資産のとぼしい機業家は、比較的安値で手に入る人絹原糸を使うことによって、大衆むけの販路をみいだしていた。米沢や、新潟県の一部地域、丹後、加賀、福井などがこの時代、人絹や、人絹交織織物の生産によって、いちじるしい発展をみたという(「不況の小機業家が人絹織物に転換」時事新報 1929/9/28: 9)。

値段はべつとして、人絹の長所として挙げられるのはつぎのような点だ。 肌ざわりの滑らかさ、光沢がうつくしい、染着性がよい、静電気が起きにくい――。この、なめらかな光沢はたしかに人絹の特色だったが、それを嫌う人もいた。たまたまこの時代、パリのオートクチュールではマドレーヌ・ヴィオネのバイアス・ドレスが評判になっていて、立体裁断の技術を用いた、女性のからだの微妙な凹凸感の、光沢による表現が流行していた。それはドローピング・ボーンレス・スタイル(drooping boneless style) などといわれていた。人絹のなめらかな光沢はそれにまさにうってつけ――といえば、腹を立てる人があったかもしれない。シルクサテンの光沢と、人絹の安っぽいペラペラした質感が、いっしょになるわけがないと。

ともあれ1933(昭和8)年のつぎのふたつの記事は、その時代に人絹が、自分の居場所を確実に手にいれていたことを示している。

生まれて二〇年 のさばる人絹時代 いまや大威張りの流行っ児 どこまで伸びるか(……)今日の欠点もあすは解消 絹ずれの音さえ出る
(朝日新聞 1933/8/10: 5)
王座を占めた織物界の暴君 どこまで進む? 人絹の発達ぶり 「安くて見栄えはするがイヤにピカピカ光って弱いので――」と云った非難は昔のこと、いまでは否応なしに一枚、二枚と、人絹お召物の数が、奥さま嬢さん方の箪笥の空間を埋めて行く状態となりました。(……)最近の人絹ものの売れ行き増加は著しいもので、(……)安くて、明るいということが、現在の時代に適している、と云うことも出来ましょう。
(読売新聞 1933/11/18: 9)

その人絹と比べれば、スフは拾われた児のように最初から邪険にされた。ス・フ――ステープル・ファイバーは人絹とちがって、木綿の代替の実用品として登場したのが不運だった。メリヤスのシャツはひと夏もたない。すこし肥えた人がうっかりしゃがむと、パンツは他愛なく裂ける。4月の入学に新調した中学生の制服のひじやお尻が、6月には破れてしまう――といった苦情、というよりこの時代には、嘆きがしきりだった。

もっとも太平洋戦争に入ったころになると、各メーカーもスフの、とくに強度の改良に真剣に取り組んだらしく、1942(昭和17)年の新聞では、繊維工業試験所での試験結果として、スフの強度が木綿に劣らないまでになった、と報じている(→年表〈事件〉1942年10月 「スフの強度純綿を抜く」朝日新聞 1942/10/23: 3)。

しかしもう、すこしぐらい弱かろうが、手に入りさえすればなんでもありがたい、という時代だった。

(大丸 弘)