近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 素材と装い
No. 409
タイトル 皮革/毛皮
解説

維新後の毛皮使用の歴史はまず海獺(猟虎)からはじまる。1886(明治19)年までの3年間にわたって発表された坪内逍遙作『当世書生気質』(第1回)中に、つぎのようなくだりがある。

(まず素人の鑑定では、代言人かと思われたり。)ときならぬ白チリの襟巻に、猟虎の帽子、黒七子の紋附羽織は、少々柔弱(にや)けすぎた粧服(こしらえ)なり。
(坪内逍遙『当世書生気質』 ~1886)

らっこは川獺(かわうそ)の一種でかつては北海道周辺の沿岸にたくさん生息していた。らっこという名はアイヌ語系で外来語ではないからカナで書く必要はない。むずかしい漢字名は江戸時代の人の考えたもの。現在は動物園の愛嬌ものだから、19世紀の末まで、あんなかわいい動物を何万頭と、絶滅寸前まで捕殺していたとはおどろく。

1895(明治28)年になってはじめて、らっこ猟はオットセイとともに免許制となり、1906(明治39)年になって禁猟期、禁猟区を設けて保護が図られはじめ、1912(明治45)年ようやく〈臘虎膃肭獣猟獲取締法〉というむずかしい法律によって、日本国内におけるらっこ・オットセイの捕獲及び毛皮製品の製造・販売を農林水産大臣が制限できること、違反した場合の罰則などをさだめている。

取締法がでるまでも、らっこの乱獲をしていたのは日本漁船よりアメリカ、ロシアの漁船だった。20世紀に入るころから、らっこにかぎらず、毛皮動物の資源の枯渇が問題になりはじめていた。それは当然、毛皮を常用している欧米諸国において深刻だった。その結果が、ひとつには資源動物の人工養殖であり、もうひとつが狩猟制限だった。1911年のわが国の取締法も、すでに調印している同年の〈猟虎及膃肭獣保護国際条約〉実行に必要な国内法だったのだ。

明治時代の日本人はまだ、毛皮を装うという習慣を本格的にはもっていなかった。黒鼠色のらっこの毛皮を宗匠頭巾風に、つまりトーク(toque)型にかぶるのと、外套、二重廻しなどの内襟につかうのくらいがせいぜいだった。『当世書生気質』の男は27、28歳という若者だったが、らっこの帽子とか毛皮襟の外套には、ふつうは裕福な年配者の印象がある。

衣料としての毛皮の使用はわずかでも、毛をとり、鞣(な)めした皮革の使用はわが国でもひろくおこなわれていた。古い時代から武具や馬具には丈夫な皮革がつかわれて、その一部は高い工芸的水準に達していたし、囊物材料としても重用されていた。また衣料としてはその防火、耐水性から火事装束として、また仕事師などの着た革羽織、革足袋もそこにむすびつく。

皮革産業は江戸時代は被差別民とむすびついていた。明治時代に皮革衣料がほとんど発展しなかったのは、差別感もひとつの理由だったのだろうか。死んだ動物の皮というものへの日本人の嫌悪感、といわないまでも抵抗感が、まだのこっていたのかもしれない。その抵抗感には、鞣皮技術の低さからくる、皮革のにおいの問題もあったろう。1934(昭和9)年に刊行された『日本職業大系』(商業編――皮革商)のなかでも、「国内の皮革工業も現今では大いに発達しているが、原皮並びに鞣皮術の点からして、今後も輸入品があとを絶つということは困難と見られる」(『日本職業大系―商業編』1934)と述べられている。臭くて教室で嫌われる本革のランドセル、部屋のなかにおけないくらい匂う皮製のハンドバッグ――そんなものもめずらしくなかった。若者に革ジャンなどが好まれだすのは、第二次大戦後を待たなければならない。

一方毛皮は、1910年代(ほぼ大正前半期)に入ると実用防寒具として利用がすこしずつひろがってゆく。もっとも大きな需要は軍隊だったが、最初のうちの材料は奥州産の猫、ムジナが主に使われるほか、穴熊、イタチ、兎も利用された。しかしイタチや兎は弱くてあまり役に立たなかったらしい(→年表〈現況〉1915年12月 「防寒具のいろいろ」日本新聞 1915/12/19: 5)。

毛皮が流行衣料のなかに入ってきたのは1910年代末(大正中期)以後、欧州大戦景気のあらわれのひとつだった。

近頃は廻し(二重回し)の襟などには、獺(かわうそ)がなくては見られぬ位、ご婦人でも日本の御盛装にも、ボアやらマフやらが無ければならぬ時代がまいりました。
(→年表〈物価・賃金〉1917年12月 「流行の毛皮類」【三越】1917/12月)
今まで和服には毛皮などあまり用いられませんでしたが、近頃コートの裏、羽織下などに用いられるようになりました。
(「流行防寒具のいろいろ」【婦人画報】1921/2月)

それまでの和装では、寒ければ綿入の重ね着、といいうのが常識だったのだが、厚綿入の不格好さがだんだんと嫌われはじめていたのも、毛皮に関心がもたれたひとつの理由だったろう。

ショールやマントの襟に暖かい毛皮、不景気風もそこのけの需要
(→年表〈現況〉1924年11月 「シヨールやマントの襟に暖かい毛皮」東京日日新聞 1924/11/19: 5)
近年毛皮が防寒具の意味において需要の一般的になって来た事は驚くほどで、嘗ては贅沢品として見られていたのが、此の頃では必需品として迎えられる様になり、殊に婦人や子どもの襟巻としての需要は素晴らしく(……)
(→年表〈現況〉1928年11月 「著しく殖えた毛皮の需要」都新聞 1928/11/14: 11)

毛皮が銀座をあるく女性に目立つようになったのは、だいたい昭和初頭、モダンガールやエログロナンセンスの時代、といわれる。そのタイミングが、毛皮にいくぶんか不利なイメージをあたえたかもしれない。そのころはさすがにまだ外套にまでは手がとどかず、夫にねだって買ってもらえるのは襟巻、というところが多かった。また毛皮の種類も、「最近、殊にこの冬になって、毛皮のボアが迎えられてきた事は驚くほどで、御召や小浜縮緬のすんなりとした肩のあたりに、深々と狐や獺のボアをまとって歩いている婦人を、かなり見受けるようになって来た」(都新聞 1929/12/18: 9)とあるように、比較的値の張らない狐が多かった。動物園でしか見られない狐の尖った頭部を胸にブラ下げて歩くすがたは、たしかにこれまでの日本女性のイメージでは考えられない。高座で落語家に、拝見すると襟巻をしている奥さんよりも、狐の方が器量がいい――などとからかわれながら。

毛皮をまとう女性に対しては、「スポーツの興隆に伴う近代的な野蛮性への憧れ」(「キモノを着たときの毛皮襟巻の表情」大阪朝日新聞 1933/12/20: 5)とか、「大形の狐を小造りの日本婦人が、しかも和服にぶら下げるのはどう見ても上品ではない」(→年表〈現況〉1933年10月 「大狐ブラさげに後悔した日本婦人」朝日新聞 1933/10/31: 14)とか、「毛皮は日本服の女をやさしく美しくは見せませんが、立派なゆたかな感じには見せます」(「コートとショールの美しい着方、掛け方」都新聞 1928/11/28: 3)などといわれながら、1930(昭和5)年を過ぎるころからは、毛皮の種類も多様化しはじめている。

1936(昭和11)年製作のハリウッド映画《巨星ジーグフェルド》は大興行師フローレンツ・ジーグフェルドの伝記映画だが、この中で1920年代に、のちの大スター、ハニー・プライスを引き抜く手段として、ミンクのコートを贈る場面が出てくる。ミンクはその時代すでに毛皮の女王であり、もちろん日本の奥様たちに手のとどく代物ではなかった。

(大丸 弘)