近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 324
タイトル 眼鏡
解説

めがねを日本人がかけるようになったのも、明治維新の文明開化からのように思っている人があるかもしれないが、そうではない。戦前に一心太助と大久保彦左衛門の映画があって、盥に乗って登城する古川ロッパの彦左衛門が、紐つきのめがねをかけていた。あれを見てロッパがもう年寄りなので、めがねを掛けさせているのかナ、と思いこむ子どもがいたようだ。じつは彦左衛門の主人の徳川家康が使っていた老眼鏡が、使用者のはっきりしているめがねの遺品としては、わが国ではいちばん古い。もちろん南蛮人のもたらしたものだ。

幕末以後にめがねが大量に入ってきたのは、だから再輸入ということになる。江戸時代もめがねは国内生産されていたが、原料のガラスは輸入に頼らなくてはならなかった。明治になって板ガラスが国内生産されるようになり、それによってめがね職人がにわかに多くなった。ヨーロッパでもめがねの生産はヴェネチアングラスと関係が深いから、めがねの魂はやはりガラスのレンズ、ということになるのだろう。おなじ理由で、その時期、めがね職人に転業した人の多くは、鏡磨き職人や、甲州の水晶細工職人だった。しかし微妙な凹凸をもったレンズの製作は見よう見まねだけではむずかしい。1872(明治5)年という早い時期に、もう技術習得のためにはるばるヨーロッパに赴いた朝倉松五郎のような職人が知られている。まためがねの縁(ふち)や蔓(つる)は金属製だったから、刀剣の飾りを作っていた職人の転業が多かった。1876(明治9)年の廃刀令以後、錺(かざり)職人はほとんど失業していたのだ。

文明開化のめがねのもっとも大きな恩恵は、近眼鏡がひろく使われはじめたことだろう。江戸時代のめがねといえば凸レンズの老眼鏡がふつうだった。

老いぬれば鏡見るにもいる眼鏡
(1700(元禄13)年の雑俳)

そういう点からいえば彦左衛門のめがねには疑問がある。盥に乗って読書でもしていたのだろうか。近眼鏡は欧米では17世紀以後一般に使われていた。肖像画で見るシューベルトもめがねをかけているが、彼は1828(文政11)年に死んだときわずか31歳だったから、まさか老眼鏡ではないだろう。明治に入って近眼鏡が普及したことと、書物がそれまでの木版でなく活版になって、一般に字が細かくなったこととは対応するかもしれない。書物だけでなく、すべて毛筆で書かれていた手紙や帳簿類の多くが、だんだんと金属のペン書きになった。頼りない灯心の明かりがランプになり、瓦斯燈や電気燈になって、そのうえ近視用のめがねが使われるようになったので、それまでは半失明者のようだった強度の近眼の人には福音だったはずだが、結果としては明治大正を通じて、むしろ近眼者が増えていったのは皮肉だ。

近眼のめがねの普及によって、めがねをかけている人―という、この時代の新しい身装イメージが生まれたことになる。また1874(明治7)年に刊行された萩原乙彦の『東京開化繁昌誌』(2編 下)のなかには、「文人墨客は旧弊維新相半ばす、あるいは除塵埃(ちりよけ)の眼鏡を掛けて横丁の出会い頭に眼ばかり来たかと人を脅し、あるいは髯を生やしたるも復古を慕うにあらで異人に紛れんことを欲し(……)」等々とあって、視力補正以外のめがねの用途が早くも示されている。

創刊後1週間目の[東京朝日新聞]に、本所の錺職人の某が家を出るときに、女房が気をきかして、塵埃(ほこり)がひどいからこれをお持ちなさいと、ありあわせのめがねを手渡した、という記事が載っている。男は受け取りはしたものの、そのまま袂に入れてすっかり忘れ、家に帰って敷居をまたぐときに思いだしてそれをかけてみた。この男はそれまでめがねというものをかけたことがなく、たまたまそれが青レンズのめがねだったので、家中の人間が真っ青に見え、必定これはコレラの感染に相違ないと、上がり框に倒れて気絶した、という(「青眼鏡」朝日新聞 1888/7/29: 2)。素通しの、ありあわせのめがね、が手近にあったということは、普及の程度を推測させる。

1890年代前後(ほぼ明治20、30年代)、欧米から帰朝した人が、めがねをかける人の増えたのに驚いている。かつ、そのなかのかなりのパーセントが、素通しの、いわゆる伊達めがねであると指摘もしている。だてに素通しめがねをかけるのは、もっぱら女学生など若い人だった。めがねをかけることによって賢そうに見える、あるいはインテリっぽくなる――というのがその理由らしかった。1907(明治40)年に眼科医の井上通泰博士は[日本]に一文を寄せ、だてめがねは無色のものであれば害はないが、ふたつのレンズの距離が狭すぎると頭痛の原因になることがある、などと言っている。

逆にめがねを嫌うひとも女性に多い。老眼鏡の使いはじめの遅れぎみなのはだれにもあることだが、若い女性には近眼鏡をかけたがらないひとが多く、ド近眼だった樋口一葉は有名な例だ。おかげで5千円札では、素顔の彼女を見ることができる。若い女性がめがねをきらうのは、かわいくなくなるから、というのがおもな理由らしい。映画などで舎監とか嫌われ役には、無愛想な丸枠の眼鏡をかけさせることがある。しかし小さい女の子がトンボのめがねをかけているのはかわいいものだ。映画《デリカテッセン》(1991)のなかで、ド近眼のヒロインがかけていた大きめのめがねも愛嬌があった。

めがねの枠――したがってレンズの大きさは、ウエリントン型とかフォックス型とかいう型のデザインとはまた別に、十何年か、何十年かのサイクルで大きくなったり小さくなったりするようだ。おそらくはもっとも単純な、「感覚疲労」のためだろう。しかし、めがねの大きさも、めがねによるこうした人の顔のイメージの愉しみも、いまは実用的にはコンタクトレンズが無くしてしまった。

日本人にとってのめがねの問題のひとつは、鼻梁の高さとの関係だ。鼻めがね以外のめがねは耳朶で支えられているので、ずり落ちやすさ、ということでは鼻の高さは関係ない。しかし鼻梁が低くボタンキョウの眼をもつアジア人は、レンズと睫毛が接近しすぎてトラブルが生じたり、めがねが横にずれたりすることもあったらしい。そのためにいつのころか鼻あてが工夫され、今日では一般化した。

しかし鼻梁で支える鼻眼鏡は、二三の著名人の例が知られているだけで、ついに土着しなかった。1896(明治29)年の【風俗画報】の流行欄では、「鼻へ挟むは余りに西洋がり過ぎると、鼻が高くなければ掛けることができぬとの二つにて中々好み手なく、やはり耳へ引っ掛くるが流行す」と言っている。もっとも欧米でも、使う人の多かったのは20世紀初めまでの短い時期だった。

めがねの魂はレンズのはずだが、消費者も、また扱う業者も、値段の違いの大きい縁のデザインの方に関心がむきやすい。レンズのかたちに関しては第二次大戦以前は丸型全盛で、名前の売れているロイドめがねもその例外ではない。消費者の関心はそれよりも縁を何にするかに向いていたようだ。1904(明治37)年1月の東京本郷の某専門店の新聞広告を見ると、金、銀、赤銅、銅、鉄、洋銀、ニッケルという品揃えがあるが、なぜか鼈甲が欠けている。それに対して1932(昭和7)年9月の大阪の三越の宣伝では、「金縁から鼈甲縁へ 金の値上がり時代に、鼈甲は一昔前の約四分の一の値段(……)一円五十銭から御座います。自然流行は懸け心地よく、安価な鼈甲眼鏡へ移り(……)」とある。金と鼈甲とは第二次大戦前における、めがねの縁の贅沢の両雄だった。それに対して大衆むきの両雄は古くからの鉄と、新興のセルロイドだった。

くりかえすが、めがねの魂はレンズでなければならない。そのレンズの近代的な研磨技術と、眼科医学的な調整はわが国では意外に遅れていた。もっぱら職人的な伝承の知識と技術に頼っていた業界が、近代的な眼科医学に積極的に近づこうとした努力が、1923年(大正12年)2月、井上通泰博士の指導による第1回眼鏡講習会(→年表〈事件〉1923年2月 「第1回眼鏡講習会」)、次いで1926(大正15)年2月、アメリカ眼鏡製造会社の技師デスモンドによる大阪での講習会(→年表〈事件〉1926年2月 「眼鏡学の講習会」)、同年11月に7日間にわたる石原忍博士による講習会等々で、石原博士は東大医学部長、逓信病院長を歴任、この時代の眼科学のトップの立場だった。

残念ながら、そのレンズは依然ガラス製で、硬質といっても限界があった。平和な時代ならともかく、敵と向かいあって戦う兵隊たちにとっては、めがねはときに生死に関わる道具だったのに、その脆さはコップと大して変わらなかったのだ。応召して家を出る夫や息子に、家族はときには10個近くの近眼鏡をもたせたというが、ガラスのなくなった鉄の縁ひとつが、遺品として帰ってくることもあったという。

(大丸 弘)