| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 323 |
| タイトル | 絵画から写真へ |
| 解説 | 新聞のニュース記事に、それまでの木版画に代わって写真が掲載されだしたのは日露戦争(1904~1905)からだった。雑誌ではすでに1890年代(ほぼ明治20年代)から写真がすこしずつ利用されていて、1895(明治28)年12月号の【文芸倶楽部】は閨秀小説号と銘うち、執筆女流作家の顔写真を扉とした。なかでは田澤稲舟(たざわいなぶね)がいちばんの美人と評判される。どんな事件にも人にも写真を求めようとするマスコミの習性にも煽られて、顔の美醜など仕事の価値となんの関係もないはずの職種のひとでさえもが、自分の顔にコンプレックスをもつような時代になった。 1910年代に入ると、山本松谷(やまもとしょうこく)の東京絵図の根づよい人気に支えられていた【風俗画報】にも、写真時代の影が忍びよってくる。街並みや風俗の紹介が、それまでの彩色木版画から、不鮮明な白黒写真に変わる。絵と比較しての写真のつまらなさは、無愛想な白黒であるというだけでなく、物語性の欠如だったろう。絵画、とりわけ風俗画の物語性とは、画面のなかの嘘の部分といってよいのだが、画家の記憶と想像から生まれる虚構が、絵に見入る愉しさなのだ。1890年代の【風俗画報】の中には、たとえば1895年の84号〈征清図絵第五編〉のように、何枚かの写真をわざわざ模写した絵画さえあった。けれども時代は、絵描きの想像によって美しく加工された世界ではなく、事実そのものの方によりつよい関心をもつようになっていた。 【風俗画報】の廃刊は1916(大正5)年、その10年前から博文館の【写真画報】が刊行されていて、1913(大正2)年には【歴史写真】が、1923(大正12)年には、【アサヒグラフ】、【国際写真情報】が創刊した。 写真への執着は新聞小説の挿絵にまで及んだ。1904(明治37)年の[大阪毎日新聞]は、菊池幽芳作の連載小説「妙な男」の挿絵に変えて、毎回、道頓堀朝日座の役者によって演出されたシーンの写真を掲載した(→年表〈事件〉1904年10月 「挿絵にはじめて写真採用」)。しかしこの試みは費用がかかりすぎるといったこともあって、長続きしなかった。 この時期、1900から1910年代(ほぼ明治30年代~大正中期)に人気のあったのが芸者を写した絵葉書だ。きっかけは日露戦争中、戦地に送られた慰問絵葉書だったといわれている。芸者の写真はそれまでも雑誌の口絵などにはよく使われていた。大きな呉服店が顧客に配っているPR誌には、モデルとして芸者以外に適当な女性がいなかった。しかし【太陽】のような総合雑誌だけでなく、【文芸倶楽部】、【新小説】、【文芸界】といった文芸雑誌にさえ、なんの意味でか評判芸者の写真が扉を飾っている。それが絵葉書となると、雑誌の粗末な紙質とは格段にちがうから、たくさんのマニアがあらわれるのもむりはない。 現在にまで、明治の芸者の風貌を伝えているのは。ほとんどすべてがこの絵葉書だ。著名な絵葉書店の主人は絵葉書美人の代表、萬龍についてこんなことを言っている。。 一番評判の良かったのはなんといっても、一八、九頃の萬龍です。萬龍の名は外国にまでひろがり、ことにアメリカなどでは日本美人を代表した名物女で、日本から来る美人絵葉書とさえ云えばどれでも萬龍、といったくらいで、今でも盛んに輸出されております。世間では萬龍の鼻を大きな不格好なもののように噂しているようですが、それはまるで反対で、萬龍の鼻は実に鼻筋の通った好い鼻です。あれほど鼻筋の通った小高い鼻は写真にすると、どうも大きくみえすぎるので、そこが私共の最も苦心を要するところです。 長島はまた、絵葉書写真のコツをつぎのように解説する。あまり愛嬌のありすぎるのはいけない、わかるかわからないくらいの嬌態(しな)をつくって、慎ましやかに取り澄ましているのが好い、眼なども一般に黒く澄んでいるのがよく、泣いているような、媚びているような、また夢見ているような、潤んだ目はダメ。きものは荒い縞が禁物、模様のある派手なのが好まれる、顔はいずれかというと丸顔は下品に見えてよくなく、瓜実顔という面長な顔がよい、概して中高が一番よく写真に撮れる、化粧は厚化粧より濃淡のある方がよく、京都式の厚紅は禁物――。 これはあくまでも芸者絵葉書としての売れ筋を、一業者の経験から語っているにすぎないが、一般に写真写りの善し悪し、ということがいわれるようになり、着付けにも化粧にもそのための心遣いが必要になった。とりわけ1950年代(昭和30年代前半)まではポートレート写真はほぼ白黒だったから、化粧にもきものの柄の取り合わせにも、そのためのとくべつな工夫があった。それが映画となれば生やさしい配慮ではなくなる。たとえば1936(昭和11)年製作のMGM映画《巨星ジーグフェルド》は記念碑的なレビュー映画の大作だが、しかしカラー時代前夜のモノクロームだったのだから、演出家の苦労は思いやられる。 その映画では、劇映画のトリック撮影は映画の紀元の時点から常識だった。写真の場合も、商業写真であれば修正は必須のこととしてその技術が習得された。しかし報道写真においての演出に関しては、あの写真は真実を伝えるのだろうか、という疑問がつねに再燃していた。 モダンガール華やかなりし1930(昭和5)年頃、初夏の銀座街頭スナップとして、二人連れのモダンな洋装女性が紹介された。日本中の人が、それがいまの東京であり、銀座なのだと憧れた。しかし実はその一瞬のスナップを撮るために、カメラマンは3日間尾張町の角で立ち尽くし、結局その写真をとったのは市内のべつの場所だったという。しかし、カメラマンは、そういうモダンガールのいちばん多く見かけるのが銀座か丸の内辺である、という経験的「事実」は知っていた。たまたまその3日間は運が悪かったのであり、その偶然によって、東京で生活している人間ならだれでも知っている事実は変えられない。つまりカメラマンは、写真では捉えられなかった真実のほうを選んだことになる。 しかしまた「やらせ」写真のなかには、読者の満足におもねるような捏造もありうるし、もっと根の深い意図をもつ例も、私たちは写真の歴史のなかで学んでいる。 (大丸 弘) |