| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 322 |
| タイトル | 写真の真実 |
| 解説 | 偶然のことにはちがいないが、わが国の文明開化と欧米における写真技術とは、ほとんど時期をおなじくして歩みはじめ、発展している。幕末から明治初頭にかけてのわが国の貴重な映像記録を残してくれたフェリーチェ・ベアト(1825~1909)にしても、写真の始祖として名前の残っているダゲール(1787~1851)やナダール(1820~1910)たちと、ほぼ同時代の人なのだ。欧米人にとっても、写真そのものがまだもの珍しかった。 それに加えて、日本を旅行すると、道端で湯浴みしている女性を見ることができるというような大衆の好奇心を、あるいは猟奇心を誘うような、クック旅行社などの巧みな宣伝もあって、極東のふしぎな世界に対する興味がかきたてられていたようだ。ベアトのような職業写真家ではなくても、荷物持ちの従者のひとりも連れて歩くような当時のツーリストのなかには、かなりの数のアマチュアカメラマンのあったことが想像される。 また、1896(明治29)年というような時期になってさえ、横浜東京の写真館を相手にして、日本の風景、風俗の写真300万点を収集したいという打診が、わざわざ来日したボストンの書籍商からあったこともある(→年表〈事件〉1896年4月 「本邦写真三百万枚の注文」報知新聞 1896/4/17: 5)。ともあれそうした一種の日本ブームのおかげで、維新前後の日本人の生活を題材にした大量の写真が残されたことは幸いなことだ。 日本人もまた写真の利点には着目し、早い時期から積極的に利用している。すでに1872(明治5)年には、囚人中凶悪の者についはその顔写真を撮影しておいて、万一逃亡の際に備えるという監獄則がつくられた(太政官符 第378号)。 日本での写真の普及には、個人としての明治天皇の影響力もあったかもしれない。明治天皇は自身が写真を撮られることは嫌ったといわれるが(→年表〈現況〉1912年9月 「写真を厭わせ給いし先帝陛下」朝日新聞 1912/9/14: 6)、西南戦争が終わってまもないころに、上級官僚3,000人の写真を提出させている。その写真は色紙か短冊に貼り、それに写真の主の手で詩歌を書かせるということをしている。さらに1882(明治15)年には、その夫人の写真も提出させるというので、印刷局はいまその撮影設備の準備中、という記録が残っている。 風景でも人物でも対象を眼で見たままに写しとれる、というので「写真」と名づけたのはきわめて妥当な命名だった。脱疽のため手足を失った名女形三代目沢村田之助の最後の舞台は、1872年村山座の《国性爺姿写真鏡》で、ここでも写真はありのまま、という意味に使われている。 ありのままが写る、ということはその理屈がわからない人々には、写しとられる、あるいは魂を吸いとられる、という恐怖につながったようだ。もちろんそれと同じ恐怖は肖像画にもあったから、――たとえばワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(1890)のような――写真だけのことではないが、肖像画とくらべて写真はより庶民的だったために、迷信も草の根的になる。 3人並んで写真に撮られると真ん中の人がいちばん先に死ぬ、というのなどはもっとも子どもらしい。女性が手をなるべく写されないようにつとめているのも、単に手が大きく写るから、というのではないなにかの思いこみがあったようだ。1873(明治6)年、明治天皇の伊勢参拝の際、内宮大廟の撮影にも大きな悶着があったという。伝えるところによると、写真撮影は大神宮に対して不敬であるのみならず、もし写真に人が写ればそのひとの寿命を縮める、というのが神官一同の反対の理由だった(読売新聞 1896/1/24: 3)。 また、ときには人間の目には見えないものでも、写真の乾版なりフィルムには写る、という理屈があって、その結果のひとつがいわゆる心霊写真だ。写そうとした対象以外のものが二重写しに写っている、というのは、自動巻き取りシステムが開発されていない時代にはきわめてありふれたミスだから、心霊写真のたぐいはある程度まで自然発生的なものだったろう。しかしやがて作為的なものが生まれ、信じやすい人たちを相手にした詐欺商売の道具となる。 心霊写真とほぼ並行して話題になったのが念写だ。光を通さない容器のなかに、感光材料、その時代だとたいていは乾版をいれ、超能力者が外部からその乾版に文字や図形を感光させる、というのが念写だった。ことの真偽はいまどちらでもよいが、人間の目に見えないものまで感じとる力をもつ写真――正確には感光剤――の能力に対する驚きが、こんな副産物を生んだといえるだろう。 それでは写真はそんなに真実を伝えるものだろうか。この疑問は写真史のはじめから存在した。たしかにそんな高級な疑問は、人生の節目節目に写真館で記念撮影をすることを新しい習俗のようにしてしまった大衆や、写真のリアリズムの前に絶望し、それまでの絵筆の修業を放棄して写真師に転じた、たくさんの二流三流画家たちには縁がない。しかし写真の普及を追いかけるように活動写真の時代に入り、初期の幼稚なSFや忍術映画が大量に制作されだすと、写真の真実に関しては次のようなあたりまえの納得がなりたった。つまり、写真とは、被写体のある瞬間のコピーであり、被写体になった対象物の真実とは関係がない、ということだ。 とはいえ大衆は写真の真実さを疑うことはない。明治期に来日した西洋人画家中で対比的な画風だったのが、フランス人のジョルジュ・ビゴー(BIGOT, GEORGES 1860~1927)と、イタリア人のエドアルド・キヨッソーネ(Chiossone, Edoardo 1833~1898)だった。日本人を下品な猿のように描きつづけた、シニカルなジャーナリストであるビゴーに対し、破格の高給で政府の役職にいたキヨッソーネのほうは、依頼された高官たちの顔を理想化し、その地位にふさわしいりっぱな風貌に描いた。西郷隆盛も明治天皇も、キヨッソーネの「作品」が複製され、大衆は、それを写真だと思いこみ、写真だからそれがそのひとのほんとうの顔だと信じこんだ。 (大丸 弘) |