近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 319
タイトル
解説

「傘」と「笠」の語源的な関係ははっきりしていないようだ。ともあれ柄の付いたほうを「さしがさ」といい、頭にかぶるほうは「かぶりがさ」という。この項で扱うのはさしがさのほうで、手傘という言いかたもあるが、めったに使わない。

中世の絵巻物を見ると、傘は庶民のものではない。庶民が傘をさすようになったのは江戸時代以降で、江戸時代後半にはいろいろな名前の傘があったようだが、明治以降の人がだれでも知っている和傘は、番傘と蛇の目の2種類ぐらいで、たまに出てくる大黒傘という名はあるが、これはもともとは大阪の大黒屋製のものを指し、明治時代には安物の番傘の別称になっている。

和傘はみんな竹の太い柄と、おなじく竹の細く剥いだ骨、その骨に糊で貼りつけた油紙とでできている。無骨な番傘は柄も骨も太く、畳むと直径は10センチくらいにはなる。重さも重い。色はきまっていないが渋茶色が多い。料理屋などの貸し傘で番号が書いてあったことからそうよぶようになり、やがて安物の傘の総称になった。蛇の目は上等でずっと細身になり、渋蛇の目とよくいわれるように赤っぽい柿渋色のものもあるし、文字どおり蛇の眼のような、同心円に彩色してあるのも多い。和傘は防水のために荏胡麻(えごま)の油を塗るため、開いたときの、その湿り気を帯びた匂いがいい。

開化の時代には、それまでなじみのなかった素材が、あたらしく生活の身近に入りこんできた。石や煉瓦、そして鉄を使った構造物がつぎつぎに建造された。白い木造の門や橋に代わって、黒い鉄製の門や橋が現れた。煉瓦づくりの街並みが生まれ、鉄の汽車が鉄の軌道の上を走った。そういう新素材の恩恵を蒙ったもののひとつが、木製の骨と紙が、ずっと細くて軽い鉄製の骨と布地に代わった蝙蝠(こうもり)傘だった。蝙蝠傘はもちろん動物の蝙蝠に似ているためにつけられた名で、もっと簡単にいえば洋傘。明治時代の人はなぜか好んでコウモリと言っているようだ。「帰りには降るからコウモリをもっていきナ」などと。たしかに当時は東京大阪のような大都会の町中でも、夕暮れ時にはたくさんの蝙蝠が飛び交っていた。蝙蝠傘は舶来の文明のなかでも、もっとも早く庶民の生活に土着したもののひとつだ。

洋傘はすでに幕末には使用されていたともいわれるが、1891(明治24)年の[国民新聞]の記事は、現存する蝙蝠傘店のうちもっとも古いのは、1868(明治元)年に京橋南伝馬町に開業した坂本蝙蝠傘店としている(国民新聞 1891/3/23: 2)。また【都の華】は、わが国で使用しはじめたのは1870、1871(明治3、4)年の頃、としている。【都の華】の説明はつぎのとおり。

ひさげる(販売する)家は、まず最初は東京の西洋小間物屋、および単に唐物屋と称する商家にして、形はいずれも深張を用い、地質は蝋引の金巾、俗に天竺木綿と称するものにて、色は青、黒が多く用いられたり、又上等には甲斐絹を用いたるが、それも色は黒、茶、青の三種を重とし、骨は八間にて、木綿の方は丸骨に、柄は木を焼きて矯め……。
(「蝙蝠傘」【都の華】1897/6月)

洋傘も最初はもちろん輸入品だったから、だれもが持つというわけにはゆかなかったろう。この時代、洋傘のおもな輸出国はフランスだった。そのため1890(明治23)年当時の前記坂本蝙蝠傘店では、リヨンの大学に留学中の息子から最新の流行情報を得、それにもとづいて同市のルベル商会という取引先から商品を送らせる、という方法をとっていた。

1880年代(ほぼ明治10年代)になると、わが国ではそれまで困難だった溝骨丸骨、またそれ以外の付属部分の製作が可能になり、やがてまずアジア諸国への輸出がはじまる。

近頃は何処も彼処も西洋品流行りにて、糸立(半纏)を着た兄いまでが、絹張りの蝙蝠傘をさす(……)。
(→年表〈現況〉1883年4月 「傘の流行」読売新聞 1883/4/19: 2)

といわれるまでに、値段も手ごろになった。明治10年代の洋傘の値段は安い品で70~80銭くらい、甲斐絹12本骨張りの上等品で2円程度。このころは清国がいちばんのよい輸出先で、1本30~40銭くらいの品だったらしいので、かなりの粗悪品だったのではないだろうか。

洋傘受け入れについてはいくぶんちがう伝承もある。1900(明治33)年5月31日の[読売新聞]の〈工芸叢談 第28 洋傘業の沿革〉では、「洋傘がはじめて輸入せられたるは明治三年頃にして、横浜のオランダ人、英人、米人が持ち込んだ見本によって、東京日本橋の中惣がまずその輸入販売をはじめた」としている。そして翌年には輸入品の洋傘を分解してその構造を知り、傘骨だけを輸入して洋傘を製造した。けだし本邦に於ける洋傘工業の創始なるべしと謳っている。坂本家も中惣も取材に対して、自家の言い伝え以外のことは一切口を閉ざしたのだろうか。あるいは知らなかったのか。もっともこの種の元祖争いは多くの業界でごくありふれたことだ。

洋傘がそれほど人気だった理由のひとつは、和傘とちがって杖の役もする、という点が大きかったらしい。この時代は紳士も好んでステッキを突いたので、その代わりということもあるだろう。また、女性が蝙蝠を杖にしている絵柄がずいぶんある。ことに旅姿となると、手甲脚絆に裾捲り、そして手に蝙蝠、というのがお約束のようだ。これはひとつには、この時代の女性が比較的早くから、腰が曲がる傾向があったのと関係があるかもしれない。外国人は日本の女性のそういう姿を海老腰などと言っている。

なお紳士のステッキは、鞘に刀身を隠した仕込杖であった時期がある。男子が外へ出るのになんの刃物も身につけないのは心もとないという、廃刀令以後の一部古風な士族の考え方だ。その考えかたを受けたのかどうかはわからないが、護身用蝙蝠傘などという物騒なものの広告が、1894(明治27)年にもなって掲載されている例がある(読売新聞 1894/4/7: 3)。

和服には蛇の目がよく似合う、という想いの人も多く、和傘はだんだんと需要を減少しながらも第二次大戦まで消滅することはなかった。

とはいえ関東大震災頃の雨具の案内に、「蛇の目傘は殆ど今では婦人用という有様ですが、この節は婦人も追々洋傘を用うるようになり、昨年の百本に対して今年は千本の割合というような盛んな需要であります」(富貴子「雨具の流行と使用法と値段と」【主婦之友】1923/6月)とある。その理由として、洋傘は電車の乗り降りも自由、混み合った人中でも破られる怖れがなく、持つにも便利という利点のほか、都会には高い建物が多くなったせいで強い風にあおられることがあり、その場合にも蛇の目より蝙蝠の方が安全、と和傘にまるでいいことはない。

洋傘が和傘と差をつけたのはさらにパラソル、とくに晴雨兼用のパラソルの人気だった。

晴雨兼用の洋傘というものがある。大抵、兼用と名のつくものは、おしゃれの道から遠く離れたものなのだが、どういうものか、あの傘だけは、意匠を凝らした晴天専用のパラソルより美しい。綺麗な和服を着たお嬢さんが紫か緑か紅かのこの傘を持って、曇った街を歩いている姿は、雨を待っている蕾の花のように新鮮だ。きっと、晴雨兼用傘のあの単色が、複雑多彩な和服の感じを、きりっと引き締めてくれるためだろうと思う。縁の色、柄の色、生地の色と、五色六色に染め分けられたパラソルは、「初荷の馬」の類です。
(宇野千代『お洒落随筆』1936)

もちろん和傘にも日傘はあった。あの、紙の絵日傘を翳した日本ムスメのイメージも欧米では根づよかった。しかし絵日傘だけではないが、和傘は100年近くのあいだ、構造も絵柄もほとんど変わることはなかったが、洋傘の方は、深くなったり浅くなったり、パラソルには房がついたり、レースの二重張りが現れたり、柄の握りが円くなったり輪になったり、つねに流行があった。しかし決定的なイノベーション――折畳み傘は、1925(大正14)年に特許が取られていながら、普及は戦後のことになる。

(大丸 弘)