| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 315 |
| タイトル | 明治の帽子・かぶりもの |
| 解説 | かぶりものは造形上の制約が少ないために、かたちがヴァラエティに富んでいる。日本の男性は古代中世には烏帽子(えぼし)をかぶる人が多かったが、江戸時代に入っては露頭がふつうになっている。そのため寒さしのぎや顔を隠したいときには、かんたんな頭巾や手拭いを用いた。頭巾や手拭いかぶりは女性もした。この風は男女とも、明治に入ってもしばらくは残っている。引用するのは、1875(明治8)年の投書。 嗚呼見苦しい日本第一の都会の往来を、立派ななりをした人が寒さ凌ぎか日よけか知らぬが、底のない紙袋をかぶったように鼻の先の所へ手拭いをかぶってすまして歩いておいでなさるを年中見かけます、実に見苦しいじゃありませんか何も寒さ凌ぎや日よけになら夫々に用いるものがあります、手拭などかぶるに及びますまい、なかには醤油で煮染めたような手拭もあり実に見苦しいこと、外国人などは定めして笑いましょう、以来頬被りは止めにしたいものだ。(読売新聞 1875/12/24: 2) 頭巾といわれるのは、長方形の布を単に巻きつけるだけのものから、袋状に縫ったものをあたまにかぶるもの、その両方を備えたものなどいろいろある。自分流のものが多かっただろうから、名称とかたちをあまり厳密に結びつけない方がよい。 明治時代の女性の頭巾を代表するのはお高祖(こそ)頭巾だろう。この頭巾はもともと袖頭巾と言っているように、長い袂つきの片袖を頭にかぶり、袖つけの部分から顔を出したような構造になっている。ただし明治期のお高祖頭巾のなかにはずいぶん贅沢なものもあるから、構造にも工夫があったろう。1900年を過ぎるころは(ほぼ明治30年代半ば)もうお高祖頭巾は古風なものになって、見かけることも少なくなっている。 コートや被布の上からお高祖頭巾をかぶり、蛇の目傘を差した女性のすがたは、明治への郷愁のひとつといってよい。そのころ、ひとりの西洋婦人がお高祖頭巾をかぶって築地辺を歩いていたという記事が1896(明治29)年1月17日の[報知新聞]にあった。どんなものを着ていたのだろうか。 東北地方では、防寒用として気軽にあたまや首に巻きつけたものを、いまでもお高祖頭巾とよんでいるようだ。 日射しや雨を避けるための笠は、男女ともに古くから用いられてきた。雨降りに差すさし傘と区別するために、かぶり笠という。乗物の便がほとんどなかった江戸時代には、長旅をするひとには男女とも欠かせなかったので、多くの種類のものが『守貞謾稿(もりさだまんこう)』には紹介されている。旅人や労働するひとが日よけにかぶるのは菅笠(すげがさ)といい、カヤツリ草科の植物の葉を乾燥して用いる。形、種類はさまざまあり、深いものも浅いものもある。 落語の「唐茄子屋」は、道楽して勘当された若者に、叔父が唐茄子を売らせる話。夏の振売り商人は顔を隠したいので深めの菅笠をかぶるが、若者にはわざと浅い笠をかぶらせた。それは道楽息子が心を入れ替えた証拠を、人伝えに父親に伝えようとの、苦労人の叔父の魂胆。 明治に入ってからは、公的な制帽としては郵便の集配人に、1871(明治4)年からは竹の子笠、1884(明治17)年からは丸笠(饅頭笠ともいう)が用いられている。また、あまり知られていないが、1869(明治2)年4月に新生の東京の治安維持のために設けられた臨時の警察制度では、戊辰戦争風の隊長が陣笠、取締組兵士が三角錐型の丸笠だった。1872(明治5)年8月、東京府に羅卒のほか下級職員として番人が置かれ、支給される衣服中に、笠一、とある(→年表〈事件〉1872年8月 「番人への支給衣料」【太政官付録】第17 1872/8/23)。 笠で印象的なのは人力車夫だろう。人力車夫に対する規制は繰り返されているが、かぶりものとしては饅頭笠にきまっているようだ。制服を含めて、笠は19世紀末までには都会ではほとんど見られなくなり、農作業用などには現在でも生きている。 烏帽子が一般には使われなくなったあと、帽子ということばは江戸時代かなり特殊なアイテムに使われた。野郎帽子、額帽子、綿帽子など。このうちほんらい防寒用だった綿帽子が、揚げ帽子、角隠しと変化し、婚礼装束にだけ現在までつづいている。帽子ということばは結局、外来のハット(hat)、キャップ(cap)などの洋風かぶりものに奪われてしまった。 礼帽、準礼帽であるシルクハット、山高帽は、19世紀中は東京市中でならごく頻繁に見かける帽子だった。シルクハットはアメリカでいうトップハット。シルキーな光沢が特色。欧米では観劇や夜会などに盛んに用いられ、日本の「礼」装という感覚とはいくぶんズレがある。観劇には畳める装置付きのものを用い、オペラハットとよんでいる。 山高帽はクラウンが丸いので、より日常的に用いられるもの。イギリスではボーラーハット、アメリカではダービーという。堅いフェルト製なので、堅帽という言いかたもあった。日本人むきのやや背の低いものを中山高(ちゅうやまたか)というのだが、誤ってチュウザン帽と読むひとがある。堅いのと、明治時代はほとんどが輸入品だったためもあり、日本人のあたまになかなか合うものがなく、このことから短頭、長頭の人類学的議論が出てきた。今日出海の直木賞作品『天皇の帽子』の、大正天皇の帽子もこれ。 クラウンがもっと低く、よりやわらかいのが文字どおりソフトハットだが、すべて真ん中がへこませてあるので、日本では中折と呼ぶ。欧米でハンブルグというのは、ソフトハットの一種をさしている。 明治の初年から、ソフトハットに次いでひろく用いられたのが鳥打帽。中折がホワイトカラーを示すのに対して、ハンティングはブルーカラーの帽子だった。これは欧米でもおなじことで、価格もソフトハットの半分以下がふつう。ただし『東京風俗志』(1898)では挿絵のなかで、明治中期のその時代、鳥打と言ったのは鹿打帽のことで、耳覆いつきのもの。耳覆いのないものはホック掛としているのはよくわからない。 帽子というと、学生帽を忘れることはできない。帝国大学は18xx年に制服制帽を制定したが、制帽は海軍の制帽に倣った(→年表〈事件〉1883年10月 海軍の服制改正)。そのため当時、学生帽を海軍帽などとよんでいた。デザインは警察官の制帽とも共通している。 特殊なものともいえるが、1870、80年代の流行にラッコ帽がある。せいろうのようなトーク型の帽子で、金まわりのいい中年以上の紳士のものだった。海獺(らっこ)が乱獲のため日本沿岸から消えて以後、ラッコ帽嗜好も消滅した。 明治時代のひとは、洋服には帽子をかならずかぶるもの、と堅く思いこんでいた。これは婦人洋服にコルセットや、夏でも手袋を欠かせないもの、と信じていたように、学習者の忠誠心と言ってよい。だから帽子もかぶらずに洋服で外出するのは、よほどみすぼらしく、また場合によっては非礼と見えたらしい。これは1920(大正9)年前後のことですでに近代の後期に属するが、「無帽倶楽部」というものがあって、世間から白い眼で見られていたらしいことが、上司小剣の『東京』(朝日新聞 1920/5月~)に出ている。 女の手にパラソルのないよりも、男の頭に帽子のないのがみすぼらしい(……) 「近頃の若い者には、帽子を被らないことが流行しかかっているそうだが、そんな軽薄な真似をするものではないよ」と、父親は訓戒を加えるように言った(……)。「無帽倶楽部(……)不良青年の団体じゃありませんか(……)」。(大丸 弘) |