| テーマ | アクセサリー |
|---|---|
| No. | 312 |
| タイトル | 足袋 |
| 解説 | 足袋は近代80年の末には和服と運命をともにして、生活的にはほとんど消滅する。足袋はしかし和装のなかでも特異な存在感のあるものだ。 足袋が特異な存在であるという理由は、これが和装中ただひとつ立体的な裁断法によっているためだ。だから初期の洋服裁縫業者のなかには、足袋屋からの転身者が多かった。足にピッタリ合うか合わないか――つまりフィットネスが気になるのは足袋だけだから、その技倆をもつ職人がいるかどうかで足袋屋の評価がきまる。おれは何屋の足袋でなければはかない、というようなセリフを吐く人は多く、もちろんそういう足袋は誂えになる。 谷崎潤一郎さんがいつか、相当の家の人で、相当な着物を着ていながら、どうも大阪の婦人は足袋がだらしがない。ぶくぶくなどしていると書いて居られたが、あれはさすがに間違いのない一体大阪女の欠点だ。(……)いくらきちんとした着物をきていても、全く足袋がぶくぶくしているのじゃ、仕方がない。一寸した事だが、一度誂えておけばもう殆ど、その型は死ぬまであるもので、一時に十足とか十五足とかづつ引取っておくと、値段なんかも決して高くない。それに、ちゃんと合った足袋は、角のいたんだりするのもすくないとのことだ。(佐野繁次郎「足袋の話」【婦人画報】1934/3月) 子ども物以外、足袋の色というと白か紺にきまっている。かんたんにいえば女性は白足袋、男性は紺か白で、男性でも紺足袋は半天着の連中か書生にかぎられ、お店者はまず白足袋だった。徒弟制度のもとでは足が冷たいからといって足袋をはく、というわけにはいかず、店や仕事によってちがいはあるが、丁稚や手代は冬のきまった期間だけに、5足なり6足なりと、店によって決まった数の足袋を下ろしてはくことが許されていた。 森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』のなかに、十代の鴎外が、硬派の古賀と連れだって吉原を闊歩するくだりがある。三人は小倉の袴に紺足袋、朴歯の下駄。その三人の姿を見てこそこそ横丁に隠れる連中が白足袋だ。硬派の学生の眼から見ると、「土曜日の午後に白足袋をはいて外出するような連中は、人間ではないようにいわれる」と。これは1880年代(ほぼ明治10年代)のことだ。 1890年代(ほぼ明治20年代)に、白足袋を履いているはずの階層の人までが、さらには女性までもが紺足袋をはく、という流行があった。底だけは白だから、一般には裏白と呼んでいたらしい。これは7、8年で終わり、それと、そのすこし前に、絣の足袋がごく少数の人に好まれた以外、色の変化というものはなかった。1936(昭和11)年に日独合作映画《新しき土》撮影のため来日したアーノルド・ファンク博士は、足袋が白だけであるのは、それだけが際立っておかしい。着物の色と調和した色をはくべきだと言っている。しかし使う素材と、細部の工夫は多彩だった。 かたち全体の点でいえば、幕末から明治はじめの足袋は、いくぶん足首の部分が長いようにみえる。その時代の絵画を見ての印象であって、はっきりとその点を指摘している資料があるわけではない。その時代の足袋はコハゼ掛けでなく、ふつうは足首で紐じめしていたので、そのことと関係があるかもしれない。コハゼそのものは、すでに享保時代には工夫されたことになっているが、1874、1875(明治7、8)年ごろからはじまった、と言っている人もある。[読売新聞]の1880(明治13)年12月の「火の用心」という記事のなかに、置炬燵にあたっていて足袋の紐に火のつくおそれがある、という注意があるから、この時代まだ紐つきの足袋があったのだろう。また、足首にゴムを入れた、紐もコハゼも不用な足袋が、自由足袋という名で1907(明治40)年に発売されているが、とくに評判になったという記録はない。 足袋といっても種類が多く、1894(明治27)年の[大阪毎日新聞]の広告には、一般的な座敷足袋のほか、御殿足袋、書生足袋、丹平足袋などという名が見えている。書生足袋が前に述べた薩摩絣、御殿足袋は織模様をもつものとの説明があり、丹平足袋は広告を出した丹平商店の名をとったもので、「大丈夫請合ふだんの御召」とあるので、頑丈仕立の木綿足袋だろう。 実用的な木綿足袋というと、キャラコの足袋、ということになっている。キャラコは平織の薄手の木綿布。よそ行きには羽二重や繻子の足袋もある。上等の衣裳に木綿足袋では、着物の裾が傷むというが、むかしの女性の神経は細かいところまでとどいているもの。また上等の鼻緒を傷める、ともいう。逆に、安物の鼻緒は足袋を傷めるとも言った。 安い足袋にはほかにネルやメリヤスがある。紅いネルの足袋などは女の子がよろこんだ。実用足袋として1890年代(ほぼ明治20年代)末から、コール天足袋がはやりだした。新聞の広告を見ると、強く、優美で、着物の裾が切れない三徳足袋などと宣伝している。また保ちがよくて温かいので、霜焼けのできやすい男の子には向いている、ともいうが、埃がつきやすいと、また細かい不満もある。 別珍の足袋は1919(大正8)年頃に、にわかにはやりだした。東京日本橋のある足袋屋の創案、ということになっている。 1910年代(大正初年)頃からはじまって、足袋業者を動揺させたのはミシン仕立ての大量生産方式だった。「ミシン縫いのは(……)不格好で、とても座敷では用いられません」(読売新聞 1914/11/28: 5)というように酷評された時期もあったが、1920年代に入るころ(大正末)には、従来の手縫い足袋は、すくなくともふだんばきの大衆向け市場では、福助足袋、つちや足袋、日のもと、などというミシン縫いで低価格のブランド品に太刀打ちできなくなる。 足袋のなかでやや特殊なものというと、足袋カバーと、地下足袋だろう。足袋には袷も綿入れもないため、木綿や羽二重の一枚だけでは、寒の内などに足の冷えに耐えられない。しかし足袋カバーは、温かい家にいるときははけても、袋式の不体裁なものだから、外出には脱がなければならない、という矛盾がある。 そのためとくに外出時に、足袋の内側に履く、細毛糸で編んだ一種のソックスが考案された。しかしこれもどの程度普及したかの証拠はない。 防寒用の足袋カバーとちがって、人の家を訪問したときに、玄関ではいてきた足袋の上にかぶせる上足袋(うわたび)というものの考案もあった。汚れた足袋で人の家に上がるのは失礼、という配慮からだが、そういうときには持参したべつの足袋に履き替えるのが、心がけのひとつだった。 すこしちがうことだが、浴衣に足袋をはくのは可笑しい、といわれる。それに対してある女性の文人は、長い道を歩いてきて、砂埃にまみれた足で訪ねたさきの座敷にあがるのは心苦しい、そんなとき道中は足袋をはくのもゆるされる、と言っている。むかしはそういう客のために、濯(ゆす)ぎを用意する、という習慣があったのだが。 足袋をとくに長持ちさせるために、傷みやすい底をいろいろな方法で補強する工夫があった。もっともふつうなのは、足袋底にもう一枚の丈夫な布を貼りつけ、細かく麻糸で刺す刺子足袋だ。その丈夫な布の代わりにゴム底を張り付けたものを、小学生が遠足などにはいたという。より丈夫なものとしては、底に皮を張り付け、これに鋲を打ち付けるものがあって、むしろ靴に近いものとなっている。こうした主に土方仕事などに用いられる足袋を跣足(じか)足袋とよんだ。 (大丸 弘) |