近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ アクセサリー
No. 308
タイトル
解説

明治・大正・昭和のはきものは、欧米とはちがう風土と居住スタイルの特性から、単なるスタイルのファッションにとどまらない面倒な問題をかかえていた。

幕末から明治初頭、坂本龍馬の1885(明治18)年撮影とされる肖像のように、紋付に袴すがたの武士たちが、足もとだけは開化風に靴をはいている写真が数多く残されている。いつ暗殺者に切りかけられるか知れないような時代、ぬげやすい下駄や草履とくらべれば、足をしっかりつつむ靴は心強かったにちがいない。

和装とくみあわさった「開化の靴」は、ごく一部の人々――女学生など――を例外にして、だいたい1880年代(ほぼ明治10年代)で消えていった。

日本服に靴を穿くということは、田舎興行の壮士劇の舞台ででもなければ見られなくなりましたが、明治の初年には大層流行ったものだと、故老に聞いております。
(→年表〈現況〉1918年5月 「日本服に靴」読売新聞 1918/5/17: 4)

長いあいだ解放的な下駄や草履式になれていたため、足にフィットする、しかも布にくらべれば堅さと厚みのある革製の靴が、日本人に浸透するには時間がかかった。足に合わない靴は、しかもそれを長時間はけば障害をもたらさずにはおかない。1877(明治10)年の西南戦争に、和服姿の西郷方兵士はもちろん、羅紗地の洋服を着た官軍にも草鞋ばきが多かった。陸軍省が大量の草鞋を買い上げて戦地に送るため、大阪あたりでは草鞋の値が2倍に跳ねあがったという(→年表〈現況〉1877年3月 「草鞋や足袋が高値に」東京日日新聞 1877/3/10: 255)。日清戦争でも軍用草鞋がもちいられたし、もう20世紀に入っている日露戦争でも、従軍新聞記者には草鞋ばきが多かったそうだ。草鞋が靴に劣るのは、消耗が早く、結局高くつく、という点だった。

日清戦争後に、当時大佐だった乃木希典が、左右同型の靴を提案したはなしはよく知られている。子供靴はべつとして、成人が左右同型の靴をはくのは極寒の地方に多い。凍った地面や雪を踏んで生活する人々は、靴下一枚くらいでは耐えられない。厚い布でまるでギブスのように足をくるんではく靴は、形をそれほど気にしないだろう。こういったものはどれも、あの一枚の皮膚のように足にフィットする、イタリアなど南ヨーロッパの靴とは、おなじ履き物とはいっても、ぜんぜんちがう感覚のものだ。

現代でも、靴はゆるいめのをはいていさえすれば、靴ずれのおそれもないからと、そう神経質にはき試しもせずに、見た目と値段で既製の靴を買っている人もいるだろう。まして第二次大戦以前、靴メーカーが外国のファッションを参考につくる、商品の流行はあっても、消費者の好みの流行はほとんどないにひとしかった。男性のビジネスシューズにかぎっていうなら、防水性とか、重さとか、踵の高さとか、耐久性とか、あとは価格に比例した高級感がどうこうというにとどまる。

男がゆるい靴を好んだのは、靴をぬぐのは入浴とベッドに入るときだけという欧米人にくらべて、靴をぬぐ機会が頻繁だったせいもある。人の家を訪問すればたいていは玄関で靴をぬがなければならない。歯医者へ行ってもそうだし、勤め帰りに寄る赤提灯もそうだ。オフィスでも靴はぬいで、一日つっかけをはいてしごとをするひとも多かった。

椅子を用いる立式生活の人々は、ときどき鬱血した足をなにかの上にあげたがる。西部劇ではシェリフなどが、机の上に長い足をのせているシーンがよくある。向かい合わせの座席の乗物で、反対側の座席の上に足をのせる行儀の悪い人は、日本にも欧米にもいる。その場合、日本人はかならず靴をぬぐが、欧米人はまずぬがない。そのため欧米の地下鉄などでは、座席の前半分だけが、汚れにくいビニール革張りになっていることが多い。また、座っている自分の横に足をのせられたとき、靴のままの方がいいか、におっても靴下の方がマシか、不愉快さのちがいにも文化の差がありそうだ。

日本人が靴をぬぎたがるのは、もちろん高温多湿な気候のせいもある。とりわけ密閉式の男性靴では、靴をぬいだ気持ちよさはひとしおだ。車内で靴をぬぐ人のため、旧国有鉄道が上草履のサービスをした時期があった。最初にはじまったのがいつかはっきりしないが、1905(明治38)年8月の[日本新聞]は、一時中止になっていたこのサービスが復活し、新橋下関直通列車にかぎり、1等車に草履10足、扇10本、二等車に草履25足、扇25本を備え置くことになった、と報じている(→年表〈現況〉1905年8月 「列車の中での上草履サービス」日本新聞 1905/8/11: 3)。

日本の男性がビジネスシューズのおしゃれに不熱心だった理由のひとつには、戦前の道路事情もあるにちがいない。ある国務大臣が認証式に、最寄りの駅まゴム長靴で来て、それから革靴にはき換えて電車に乗ったという記者レポートがあった。戦前の男性の靴を考えるとき、各種ゴム靴の貢献を見落としてはならないだろう。

泥道に対抗して伸張したのはゴム靴だった。日本靴連盟発行の『靴産業百年史』(1971)によれば、ゴム靴自体は福沢諭吉の『西洋衣食住』でも紹介され、1877年の第1回内国勧業博覧会にも出品されたとある。

また、明治初期にゴム靴といわれていたのは、ゴム塗革や、ゴム糸を一部に織込んだ革靴が多かったようだ。防寒耐水性に富む総ゴム靴の長所が認められて、にわかに需要の増えたのは日露戦争(1904、1905)以後のこと(『靴産業百年史』1971: 173)。【風俗画報】の1905年1月号の「流行門」には、「防寒用ゴム靴 戦地行の為品不足なり」とある。とんで1922(大正11)年にはつぎのような新聞記事がある。

(欧州)大戦後以来、ゴム靴の需要は非常に膨張して、ゴム工業会社は各地いたる所に設立され、何れの会社もゴム靴製造を其の事業の主なるものとしている(……)。近来は小間物店はもちろん、雑貨店でも荒物屋でも、果ては大道商人は戸板の上に並べて安売りをしている有様である(……)。
(山形新聞 1922/1/26: 3)

ゴム靴は地方では農作業用に重宝がられた。あるいは労働社会層に、またこれまでは下駄ばきで、足もとに気をつかって歩いていた女学生たちが、通学はほとんどゴム靴に変えていると報じている。この記事の見出しは「護謨靴に征服され 市内下駄商困窮」となっている。

1910年代(ほぼ大正前半期)以降になると、ゴム靴の需要は、雨天用のゴム長靴とズックの底ゴム靴に、大きな一般需要は分かれたようだ。丈夫なキャンバス布をつかって、なぜかそれをオランダ語の“zoeg”から、ズックと呼びなれた。ぜんたいが布の靴は本格的なバレーシューズぐらいで、ゴムをどこにどう被せるかに工夫があり、いくつかの特許がうまれた。ズックのゴム底靴は児童の運動靴として、また小学生の上履きとして大量に生産された。

登山をはじめとするスポーツシューズの本格的発展は第二次大戦後を待たねばならないが、とくに寒冷地の労働用としてはひろく普及していた。そのなかの異色といえる日本的労働履きが地下足袋だろう。

一方ゴム長靴についてはこんな記事が1927(昭和2)年にある。

東京郊外の悪路のため通勤通学者の必需品となる。梅雨時はオーバシューズを用いるため、長靴が最も売れるのは降雪季。一冬に東京付近で、約20万足60万円の売り上げという。
(→年表〈現況〉1927年12月 「ゴム長時代来る」東京日日新聞 1927/12/12: 11)(→参考ノート No.542〈雨の日〉)

また、雨の日の下駄屋さんの嘆きとして、次のような記事が1925(昭和元)年にあった。

雨の日の東京の道路と履物――下駄屋さんは恨めしげに世界名所の泥道を眺めて曰く「こんな道ですから段々ゴム靴をはくようになって下駄がはやらなくなります。此頃学校では下駄箱をゴム靴用に改築しているからやり切れません。」小学校の校長さん嘆じて曰く「雨が降ると生徒が外から運ぶので学校は泥の海です。これが一度天気になって御覧なさい。学校中を砂埃が吹きまくるのですから衛生上大問題ですよ。いつになったら東京の道路はよくなりますかね?」
(「雨の日の東京の道路と履物」 時事新報 1925/2/18: 2)
(大丸 弘)