近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 226
タイトル パーマネントウエーブ
解説

パーマネントウエーブの情報は1910年代の末(大正半ば)にはアメリカからもたらされていたが、日本での本格的普及は1930年代後半(昭和10年代)からだった。皮肉なことに、パーマネントの排撃がはじまった1937、1938(昭和12、13)年頃からが、パーマの全盛期だった。

もちろん日本全国という視野でみれば、普及の様相はもっとさまざまになる。東京の一流美容院ではすでに昭和のはじめ(ほぼ1920年代末)には、アメリカ製の機械の導入をはじめているのに対し、地方の小都市では、パーマネントといえば戦後の風俗だった。1939(昭和14)年の座談会で、今和次郎は、「今日これほど若い女性のあいだに魅力をもつパーマネントが、女性が農村にいるかぎりかけることができない。パーマネントをしたいために都会へ出て女中をするひともいる。パーマネントは都市 対 農村の問題だ」と発言している(→年表〈現況〉1939年7月 「事変下の風俗」朝日新聞 1939/7/1: 6)。

この時代の電気パーマネントウエーブ法はつぎの手順だ。フェルトに発熱剤を浸みこませて髪にのせ、銀紙を巻き、それを金属のプロテクターではさむ。発熱剤はアンモニアと硼砂末(ほうさまつ)と蒸留水を混合したもの。かけ終わると洗髪して大型ドライヤーで乾燥する。だからパーマネントをする美容院には、パーマネント器とドライヤーという、ふたつの大きな電気器具が、お客さんを脅かすようにならぶことになった。

日中戦争のはじまったころ(1937年)には、都会の美容院で、看板に和洋結髪とだけ書いてある小さな店へも、パーマしてもらえますかと、お客がとびこんでくるようになった。そしていつのまにか、美容院のことをパーマネント屋とよぶようになった。そんな時期に一方では、「パーマネントはやめましょう」という唄を、そのころ流行った《満州娘》の節にあわせてガキ大将が歌っていた。

パーマネントが大流行しはじめたころ、また例によって新しいもの嫌いの人たちの批判、ないし非難があった。医学的立場から、パーマネントは電熱で毛髪の髄質まで殺してしまうのだから不自然、不衛生という意見がめだつ。

この時代のオピニオンリーダーのひとりだった吉岡弥生も、「パーマネントは絶対反対です、日本の婦人はパーマネントなどかけないで、まっすぐな黒髪を梳ってきちんとあたまの上に結髪して欲しいと思います」と言った。ところが吉岡はその一方で、「婦人も昔と違って生活が忙しくなり、外に出る機会が多くなったので、時間を尊重する意味からも、一度かければ半年ももつというので、経済的に至便だといわれるので、これには一理あると思います」と言い、またパーマネントが電気を使用することから危険視されている点について、「しかしパーマネントがこれほど一般的に普及したため美容院の設備もよくなり、また美容師も、パーマネントに対する知識も養われ、ようやく電気作用がどういう風に人体に作用するかと言うことも会得でき、危険も少なく一進歩を遂げた感があります」とも言っていて、反対がやや腰砕けの感じだ。吉岡はもともと日本髪には批判的だった。

反対の論拠は多分に感情的で、個人的な好みにすぎないともいえた。外来の新しいものに対する敵意のようなものがあったのは、耳隠しの洋髪流行のとき同様だったが、たまたま日中戦争の拡大期という時代もわるかった。

かつて束髪が入ってきたとき、日本髪の髪結さんたちが騒ぎたてて、束髪退治などと言ったことがある。洋髪が入ってきたときもそうだった。パーマネントの場合も、電気で丸坊主になった――というような、わるい噂の火元は、パーマを毛嫌いする老髪結いさんの周辺だったかもしれない。しかしこの時代の美容業は、理髪業とともに警察の管轄下にあり、衛生や危険については明治時代のような無自覚なものではなくなっていた。組合主催や、美容機器・材料業者、あるいは資生堂などの企業による講習会、有名美容師による技術指導も頻繁にあった。横浜、神戸などの若い美容師のなかには、大型客船でシアトルへ往復し、そのひと月あまりのあいだ、船内の美容室でアメリカ人美容師の助手になって技術を習得する、という方法をとるひともあった。美容師たちにとってはきびしい、しかし活気ある時代だった。

パーマネントに対する悪口には、丸坊主、のほかに雀の巣、というのがある。電気処理が終わり、ロッドを外してときの毛は、お釈迦さんの螺髪(らほつ)のようにみじかく縮れている。ふつうはまず洗髪し、ローションをつけてていねいにブラシと櫛、指をつかって形づけるのだが、このチリチリのかけっ放しのほうがよいというお客もあった。髪が落ちないのでうるさくないからと。派手なバンダナでも巻いて、口紅を濃く塗り、くわえ煙草などすると、飲み屋のお姉ちゃんの一丁あがり、というわけだ。ヘアスタイルとしてのパーマネント非難は、だいたいはこの髪型に集中していた。もともとパーマネントウエーブは薬品と熱によって頭髪の性質を変える技術だから、ヘアスタイルには関係ない。しかしこのかけっ放しは、たしかにもっともパーマネント的スタイルだった。

1940(昭和15)年頃に燃え上がったパーマ是非論議は、吉岡弥生風の感情論をべつにすれば、かけっ放しに代表されるけばけばしい――当時はこれをアメリカ式とかジャズ的とか言った――スタイルが時局にふさわしくない、という一点だけだった。

一方で、吉岡も認めているパーマの生活実用性は否定しようがなかったから、行政や警視庁がパーマネントを禁止することなどありえなかった。

しばしば、粗雑な年表などで、パーマネントが禁止された、と記載されているのは、1939(昭和14)年6月19日に開催された、民間団体である国民精神総動員連盟(精動)の生活刷新に関する小委員会の提案だ。その4つの項目中の第3項の(6)服装の簡易化、のなかに(ハ)婦女子のパーマネント・ウエーヴその他浮華なる服装化粧の廃止、とあったことを指しているらしい。これはあくまでもキャンペーンであり、強制力のあるものではない。そういうことがあったとすれば、どこか地方の条例だろう(→年表〈事件〉1939年6月 「国民精神総動員連盟」朝日新聞 1939/6/17: 11)。

それよりも、戦争末期の1943(昭和18)年に電力不足のため、パーマネント用電力の使用を禁止されたときのほうが痛手だった(→年表〈事件〉1943年10月 「東京市ではパーマネント用電力―」朝日新聞1943/10/1: 2)。しかしパーマネント自体が禁止されたわけではなく、男性の欠けた穴を埋めるための女性の職場進出は益々さかんになったから、それにともなってパーマネントの需要はふえる一方だった。

電力をつかわないパーマネント――戦後普及したいわゆるコールドパーマは、すでに1930年代末には実用化していて、1939(昭和14)年4月には、資生堂がゾートスウェービング講習所を開設し、そのキャンペーンをしていた。ゾートスは先駆的コールドパーマネントである(→年表〈事件〉1939年4月 「資生堂、ゾートスウエービング講習所開設」『資生堂社史』1957)。しかし電気パーマにくらべていくぶんかかりが悪い、というのと、料金の点で、普及は足ぶみ状態だった。電力がつかえない状態になったとき、当然この方法が再認識されたのだが、しかしもっと手軽なべつの方法が考案された。それはガソリン車に代わって薪自動車が現れたように、電気に代わる木炭パーマが出現した。親指の先ぐらいの炭を数個燃やすことによって、電熱にくらべそう遜色のない熱が得られるのだ。

爆撃によって、大都市中心部の美容院がつぎつぎにすがたを消していた時代でも、木炭パーマをやっているという口コミを頼って、焼け残りの場末の店に、遠くからお客さんが訪ねて来たそうだ。

(大丸 弘)