近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 224
タイトル 耳隠し
解説

耳隠しは関東大震災(1923)のすこし前から流行しはじめ、1930年代(昭和5年~)に入るころにはもうほとんど廃れていた(→年表〈現況〉1929年6月 「耳を隠さぬ婦人」時事新報 1929/6/1: 2)。

10年弱という流行期間は、この種のはやりものとしては標準的な長さだろう。耳隠しはその技術的ベースにアイロンウエーブの利用があり、また断髪の普及と並行していた。この二つは単なるヘアスタイルに過ぎない耳隠しなどより、美容史の上ではずっと大きな意味をもっている。

欧米の服装史の上では、耳隠しの流行は欧州大戦後、いわゆるローリング・トゥエンティーズ(roarinng twenties(狂乱の20年代))のギャルソンヌ・スタイルと一致する。わが国は遠い欧州での戦争に思わぬ漁夫の利を占めて大小の成金を生んだ。浮かれた日本人に対する天の裁きが震災だった、などと説くひともあった。もうひとつのおしゃれ、の余裕が中産階級にもできて、洋装や、美容院の誕生にむすびついた。アメリカ帰りや、美術学校出や、カタカナ名前の有名美容師が、新聞の家庭欄で新しいおしゃれの解説をした。銀座や、震災の年に完成した東京駅前の丸ビルの周辺は、ショートスカートとボブ・ヘアのモダンガールばかりのように、地方に住む若い女性は夢見ていた。

夜の銀座のそぞろ歩きに、三越や白木の雑踏の中に、現代のあらゆる階級の婦人風俗が窺われます。(……)猫も杓子もの耳隠しの流行には、いささか当てられないでは居られません。
(【女性美】1923/3月: 35)
この頃では、お若いお嬢様方が殆ど、お耳かくしを遊ばして居られますが、どうし てもお耳をかくされた方が、お若い方々には華やかであり、又似つかわしいものとも存じます。
(大場静子「洋髪に就いて―七三のお耳かくし」『家庭科学大系』(賀川豊彦編) 1928)

ヘアスタイルとしての耳隠しは、それまでの普通の方法なら、前頭部の髪を、耳の内側から後方へまとめるのに対して、耳の外側に、髪で耳を覆ってからまとめる。耳隠しには両方の耳を覆う両耳隠しもあるが、デザインとして重要な意味をもっているのは片耳隠しのほうだった。

片耳隠しがヘアスタイルの上で特異さをもっているのは、その左右アンバランスのためだ。もともと人間の顔もからだもほぼ左右対称であるため、身の装いは自然なかたちとしては同様に左右対称であることが多い。からだにまとう衣服の場合、日本や中国の衣服のような展開衣、あるいは古代地中海のマント式衣服のような場合は、打ち合わせのためや右腕を自由にするために、左右が非対称になることがあるが、頭部については、非対称にする理由がない。そのために片方だけの耳と、頬の一部を覆って毛を下げるのは、片耳の兎を見るのとおなじような、異常さの印象をひとに与える。

左右アンバランスの髪型としては、じつは耳隠しより10年以前に七三分け髪が先行していた。男性の理髪の場合には、オールバックにしないかぎり、たいていの人が七三なり六四なりのアンバランスな分け方になる。これは毛根が、そういう分け方に適したようになっているためだ。ただしこの毛根によるコントロールは、丸坊主に近い短髪の場合や、逆に女性のような長い髪の場合には、あまり関係がなくなる。髪を長くのばして結んでいた明治以前の日本人には、男女とも髪を分けるという習慣がなく、まして左右アンバランスの分け前髪の正面観の印象は、未経験だったのだ。

1910年代(大正初年)に七三女優髷が流行しはじめたとき、作家の青柳有美はこれをまるで憎悪といってもいいような口調で攻撃した。

女優髷は、たとえ髷の名があっても、厳正なる意味における髷ではない。(……)頗るプリミチーブな野蛮時代の束ね方である。(……)直線の多いヒダのないキチンとした衣服を着る女に、プリミチーブな野蛮的な、簡素なモシャモシャした女優髷は断じて釣り合わぬものである。
(青柳有美『女の裏おもて』1916)

青柳の言う厳正な意味での髷とは、島田や丸髷、銀杏返しのような、かたちのきまった、お寺や神社の正面観のように左右均整のスタイルをさすものらしい。そしてその論旨を発展させて、整っていない髪のもち主は、「頭を男の胸にぶつけようが、これによって髪の形を壊すという怖れは毛頭無い。この点で女優髷は、女が蔭で不品行を働き、口を拭って何食わぬ顔で済まそうとする」のに適した髪で、男女の道徳を紊乱させる髪だ、と断定している。

左右アンバランスの顔は、相手に真向かうのではなしに、顔を背けてやや横目で相手を見やる顔にも通じる。流し目で人を見ることにも、色目をつかうことにも、ひとの顔色を窺うことにも通じる。理知的で率直であるより、情的で、意味ありげだ。

10年前の分け前髪の新しさには、単に古いもの、きまりきった習慣との対比があった。男性の整髪との対比から、多少はどこかに、マニッシュな感じがあったのかもしれない。それに対して耳隠しの新しさには、女がもっと、大胆に華やいだ気持ちになったように感じられる。妻のタイプによっては、夫が不安を感じるくらい。

志賀直哉はその時期に、短編「雨蛙」(1923)の末尾で、一夜の不義を犯して帰宅した妻を描いている。彼女が耳隠しに結っているのは、単にそのときの流行だから、というだけではないようにも感じられる。

(大丸 弘)