近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 223
タイトル 七三/女優髷
解説

七三女優髷とつづけていわれることが多いが、一応は、このふたつはべつの概念だ。

七三というのは男性の髪型でいうのとおなじで、前の分け方のこと。女性は男性とちがい、この時代まで前髪を分けるという習慣がなかったから、七三でも六四でも、とにかく分け前髪ということが目新しくみられた。

女優髷というのは、そのふたつに分けた髪の一方を、極端に大きくふくらませる髪型をさす、とかんがえられている。

1910年代のはじめ、時代が大正と変わったころ、女性の髪型はいわゆる日本髪の各種類と、束髪とがならんで結われていた。東京でいうと下町は日本髪が多く、山の手には束髪が多かった。女学校出の、いい暮らしの奥さんなどには、ふだんはあんこ(毛心)の入った大きな束髪でいて、お正月やなにかの祝いごとのときは丸髷に結い変える、というひとがずいぶんいた。下町の商店のお上さんなどで、ふだんは赤い手柄の丸髷で粋な風情を見せているが、夏のあいだは軽くて涼しい束髪を結っている、というひともいた。1910(明治43)年頃の束髪はいわゆる廂髪で、たいていは自分の手で結っていたから、形も大きさもマチマチだったろうが、日本髪の丸髷や銀杏返しとおなじように、もうだれの眼にも見なれたものになっていた。見なれたものになっていたばかりでなく、この時期の束髪は、現在あまり写りのよくない写真で見ると、日本髪と区別のしにくいものがあるくらい、日本髪に近づいていた。それは1900(明治33)年以前の縦型束髪にくらべると、日本髪の前髪や鬢(びん)、髱(たぼ)に当たる部分がふくらんでいたためだ。

割れ前髪、あるいは分け前髪は、その点での大きな新風だった。その先頭を切ったひとのなかに帝劇女優の森律子もいた。1920(大正9)年の読売新聞記者によるインタビューのなかで、1913(大正2)年にフランスを訪れたとき、彼の地の女性たちの自由で軽やかな髪型を見て帰り、それをまねたのが分け前髪である、と言っている。このインタビューに添えられた彼女の写真は、七三というより八二に近いが、分けたあとの髪のまとめ方は、耳隠し風という以上のことはわからず、また一方をとくに大きくふくらますこともしていない。

1913(大正2)年頃の女優のポートレートを見ると、分けた前髪の一方を、大きくふくらませた髪型にしているひとの眼につくのは事実だ。しかし森律子の思い出のなかに、「前割れの束髪にはいたしましたが、誰でも何となく、ひとが見る様で気がさすと申されて、前を分けられませんでした」といっているように、女優の率先した新風とは、アンバランスなふくらましかたよりも、アンバランスな前割れ髪だったことがわかる。

1910年代に帝国美髪女学校の講師という、同時代の流行を鳥瞰できる立場にいた森ちえ子は、1915(大正4)年に、束髪の流行の変遷を、「桜巻、さざ波巻き、大正巻、飛行巻、R巻、M巻、女優巻というようなものが流行って参りました」と言ったあと、その女優巻についてこうのべている。

夏は涼しいらしいというのがなによりの要求で御座いますから、前髪を二つに割った例の女優髷式のものが若い方には好まれています。これも段々形が変わってきて、真ん中をふうわりと膨らませながら二つに割ったので、昨年あたりのよりはずっと形がよくなって参りました。
(森ちえ子「遷り行く流行の髪形」【婦女界】1915/8月)

この説明であると、最初に分け前髪があり、そのあと膨らませるスタイルが生まれたことになる。しかし左右のバランスについては触れられていない。

その3年後になって、美容家のべつのひとりはこんな発言をしている。

女学生風は昨年来著しいかわりがございませんが、一体に前髪も髱も沢山出さずに低くして、髷が思いきり大きく、平ったく下巻きにしたものでございます。前も女優式に正しく分けず、ざっと分けたのや、(……)。
(高木きく「春らしい髪の結い方」【婦女界】1918/4月)

女優髷のひとつの特色が、分け前髪の左右をアンバランスに膨らませるスタイルであることの可能性が、一応このことばから納得される。

作家の長谷川時雨は、女優髷についてつぎのように言っている。

この奔放な心持は、これまで家庭婦人と言えば、丸髷を連想させたおくさん達を化して、恐ろしい勢いで一躍あの女優髷に赴かせた。女優髷というのは、この一般の呼び名が示す通り、7、8年前(1913、1914)までは(女優でもなくては)結わなかった割前髪の束髪である。その時期に当たっては、(女優は)軽佻、浮薄な女性の代表視されて、よのつねの婦女子と共に齢されるのを恥じた階級であった。
(長谷川時雨「現代より将来を想う」【婦人画報】1921/1月)

ここでも長谷川の問題としているのは、分け前髪の点だけだ。

しかし単に分け前髪、というだけであると、一方で「健全な」分け前髪の存在していたことも見落としてはならない。

今東京の貴婦人社会に新しい束髪の結い方が盛んに流行してきた。即ち前髪を七分三分に分けて、七分の方を右に寝かし持って行き、其の翠の黒髪で巧みに額の形を取る(……)。
(朝日新聞 1913/7/18: 7)
夏は前髪にシンを入れないで束髪に結った方が、衛生上からいっても、見た目にも、軽くて涼しいのであります。仏蘭西巻というのが、前髪にシンを入れないで真ん中を分けて結うのでございます(……)。
(小夜子「涼しそうな女の扮装」【真婦人】1913/7月)

このように並べてみると、森律子や長谷川時雨は触れていないが、女優髷といわれる髪型には、分け前髪以外の要素のあったことは明らかであり、それは左右のふくらまし方以外には考えられない。

松井須磨子は女優髷と呼ばれて居た髪でした。束髪の前髪を七三に分けて、左右ともふっくらとふくらませて髷はふつうの束髪より根を低く結んだのを、女優髷と呼びました。
(藤原あき【それいゆ】18号(秋号) 1951/8月)

松井須磨子を園遊会で見たときの藤原は14、 5歳だった。彼女はこの高名な女優の髪の、分けた前髪のふくらみまでを観察したが、左右のバランスまでは言及していないのは残念だ。

長谷川の言い分がそうであるように、女優髷もたいていの風俗の新風がそうであったような、攻撃と悪罵の対象となった。作家の青柳有美は『女の裏おもて』(1916)という著書のなかで、「女優髷は風俗壊乱」という1章まで設けて、この髪が男女関係を淫靡なものたるに至らしめる、と罵っている。

なお、女優髷以前の1911(明治44)年頃に、女優結び、女優巻というものがあった。帝劇女優人気に便乗したものだろうが、具体的にはわからない。

(大丸 弘)