テーマ | 美容 |
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No. | 222 |
タイトル | 廂髪 |
解説 | 束髪といえば即ひさし髪(庇髪あるいは廂髪)と思っているひともいるくらい、名前はよく知られている。ここでは束髪の後半期、それまでもっぱら頭頂と背面部だけだった束髪が、水平面にひろがっていった時期を廂髪によって代表させている。 単純にいうとこの時期の束髪は、丸いクッション状のものを冠っているように見えた。前方に10センチ近くも突きだしていたのがいわゆる廂髪で、ただしそういう極端なものが流行した時期はみじかい。横から見たときは水平ではなく、前が上がり、うしろが下がって髱(たぼ)状の部分をもつものが多い。 前期の束髪とのちがいは前から見たとき一層はっきりする。縦型束髪が横へのひろがりを欠いていたのに対し、1900年代以後(明治末~大正初め)になると、日本髪の鬢(びん)とおなじように横に張り出し、ぜんたいとして大きくふくらんでいる。 最初のうちこそ人手要らずの軽便なひっつめ髪でしたけれども、いつとはなしに、少しずつ進化して、横の鬢を出すようになり、後の髱を出すようになり、前なぞは廂髪と称して、旧来の前髪に十倍した大きなものを突き出すようになりました。 ふくらませるためにはたくさんの梳き毛を入れる。その結果、最初の束髪会の趣旨とちがってかなり重いものにもなり、たいていは髪結いさんの手にかかるため、経済的ともいえなくなっていた。しかし相変わらずあまり髪油をつけないために、束髪といえば、額や襟元から後れ毛が垂れ下がっているもの、というふうに考えられていたらしい。 後れ毛の二三本はらりとこぼれたのは艶ですが、ハイカラ(=束髪)の毛がお獅子のように、顔にぶら下がっているのは、いいようのない暑苦しさを感じます。 縦型束髪が水平なクッション形束髪に変化したのは、1900年代前半(ほぼ明治30年代)のことだった。いつもそうであるように、流行の発生については諸説がある。 【都の花】1902(明治35)年12月号に、華族女学校からはじまった流行として「それは束髪で、額一杯にふっくりと前髪をとったが如くに捲きあげて御結びになる、その方が海老茶のお袴にうつるので是れが女学生の流行になり、髷の頭まで取られる様になって来て、今では花柳社会という側にまで流行して来て(……)」とあるのがおそらく、関連のあるもっとも早い時期の言及だろう。一般には、下田歌子式とか、貞奴風とか、花月巻とかいわれて、いずれも前髪をふくらませる点では共通していて、時期はだいたい1902、1903年頃にはじまった、とされる。すでに1903(明治36)年9月に、弥生山人なる人が[朝日新聞]のコラムに、全国に行きわたった品、として、エビスビール、胃散、中将湯などといっしょに「女の大きい前髪」をあげている(朝日新聞 1903/9/14: 6)。 1904、1905年の日露戦争が終わるころには、前髪をつきだした束髪の流行は全国的になっていた。1905(明治38)年8月の三越呉服店の【時好】には、「何が今世間にはやっていると云って、此の二種ほどあまねく流行しているものはあるまい」と言って、廂髪と海老茶袴を挙げ、筆者が数日前九州を旅行した際の印象をつぎのように書いている。「実に驚いたのは、いかなる寒村僻地にも、ひさし髪と海老茶袴を見受けぬ所のないことで、流行もここに至ってはじめて其の目的を達したものというべしだ」。 1880年代(ほぼ明治10年代)後半の束髪の受け入れからは、すでに20年あまりが経過している。その間、束髪にとって逆風といってもいい時期が長かった。そんななかでも束髪は、都会のあるタイプの文化を形成していた。西洋風を悪しざまにいうひとは、束髪は、耶蘇と女教員と産婆だけだ、と決めつけたが、その時代の新聞小説挿絵を見ると、山の手の良家の、学校教育をうけたお嬢様といえば、きまったように束髪が多い。女学校出であること、職業をもっていること、やや権高な役割の女性、それが1890年代(ほぼ明治20年代)縦型束髪のイメージだったといえる。 廂髪の大流行は、1890年代束髪のそういった固定観念をある程度まで打ちこわした。大正も間近な1910年代になると、束髪は身分や年齢をこえてひろまった。 栄枯盛衰のはげしかった束髪は、去る三十七八年の戦役以来、(……)漸次其の勢力範囲を拡張し、中流以上の厳格なる家庭では、十中の八、九束髪に結ぶ状態であるが、数年前までは四月より九月に至る迄は束髪が多く、十月より翌年三月までは日本髪が増加したものであったが、近来四季を通じて束髪に結ぶ人々が多くなった。 束髪が年齢や身分に関係なく結われるようになった理由のひとつに、見た目がそれほどちがわないまでに、明治末の束髪は日本髪に接近していた、という事実もあげなければならないだろう。写真や絵で見るかぎり、その髪が束髪なのか日本髪なのか区別のしにくいものがめずらしくない。しいていえば、束髪は髷が概して平べったく、側面から見て貧弱といえるくらいだろうか。 今の廂髪は既に束髪の範囲を脱して、却って日本風の髷髪に近づいたものです。鬢もあり髱もあり前髪もあり、もう一層進歩すればほとんど純然たる日本髪となるべきものです。一転、語を下して申せば、今の束髪は日本髪の未製品です。 大きくなった束髪には束髪用の重い髢や入れ毛をし、束髪用の二枚櫛、三枚櫛をさし、はでな造花や、宝石や珊瑚のついた束髪かんざしを挿す。ぜいたくさの点でも衛生の点でも、かつての「束髪ひろめの会」の時代は遠くなった。けれどもこの丸いクッション状の束髪が――1910年代以後(大正~)はハイカラという呼び方が普通になる――日本髪と拮抗して、大正・昭和戦前期の女性風俗を生きつづけた。 そのために、なにかというと日本髪と束髪の比較論、優劣論がひとの口の端にのぼっている。 丸髷にはしっかりとした落ち着きがあり、廂髪にはじっとしていないという、活動的気分が現れています。丸髷は円満である、情味がある。家庭の主婦としてお立ちなさる方にはもっとも適当した髷だろうと思います。廂髪は軽快である、活気がある。社会に出て仕事をなさる方には、もっとも適当した結び方だろうと思います。 今度の大家は(……)みなキリスト教の信者で、殊に美しい若奥様は、毎日曜日になると、わざわざ綺麗に結ってある丸髷を解き、束髪に結び変えて、日曜学校に教えに行かれる、近頃殊勝なひとである。 束髪が流行するなどという言葉はもう昔になって仕舞って、今日では日本婦人の一つの髪の形となっています。そして東京婦人の髪を束髪と日本髪とに区別したら、屹度束髪の方が多いに違いありません。(大丸 弘) |