テーマ | 美容 |
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No. | 221 |
タイトル | 縦型束髪 |
解説 | 束髪という髪型は単純にひとつのものだけを指しているのではなく、またことばについての誤解もある。最初にことばの整理をしておいたほうがいいだろう。 このことばが最初にひろまったのは1885(明治18)年、東京の医師渡辺鼎らによる、「束髪ひろめの会」の発足にはじまるキャンペーンだった。医師の渡辺らしく、衛生的目的、ということで勧められたそのときの束髪には、洋風と和風とがあり、有名になったのは図入りで紹介された上げ巻とか英吉利(イギリス)巻とかいう洋風のスタイルだ。和風の束髪はだれも知っているから、ということで、紹介を省いている。『明治風俗史』(藤沢衛彦 1929)におけるような、束髪即洋髪とする誤解が生じたのはそのためだろう。数年後に出た美容書でもおなじように、和風の束髪は説明するまでもないとして省略している。 束髪にも種々あれど中にも先ず採るべきは西洋風の上げ巻、下げ巻、まがれいとと、日本風のをばこ、くしまき、達磨返し、じれった結び、兵庫結び等なるべし、而して日本風の結び方は人既に知り居るを以てここには只西洋風の分のみに付き結び方を説明すべし。 和風の束髪である櫛巻、おばこ、達磨返し、じれった結び、兵庫巻、おしゃこ、のたぐいはどれも文字どおり、髪をぐるぐる束ねておく、というだけのものであって、髷を結んではいない。だから髪を結うということばと束ねるということばとは、ほんらい区別があるはずなのだが、しかし日常的にまぎらわしく使われている。 洋風、日本風とも、この時期の束髪は単純に縦長であり、鬢(びん)をふくらませていない。束髪が前や横にふくらみだすのは、もっとあとのことになる。いわゆる廂髪(ひさしがみ)がその例。束髪ということばもそのスタイルも、廃ることなく第二次大戦後までつづいたが、1910年代以後(大正~)は、ハイカラという名でも呼ばれるようになった。 1920(大正9)年頃に、欧風束髪、もしくは洋風束髪と呼ばれるものが現れる。これは単に饅頭のようだった形に変化を加えたもので、また熱アイロンで髪に癖をつけたりする技巧も加わった。この洋風束髪を略して、洋髪と呼ぶようになった。 1880年代後半にはじまった束髪は、鹿鳴館の夜会、舞踏会、洋装などとセットで、半強制的に推進された、という一面もある。その直接の範囲は、西洋風の夜会に出席する人たち、将来出席するかもしれないような女性たちだったはずだ。外国の外交官を交えた夜会で、外国人女性とおなじように広間の華となるためには、外国人と同じようなすがたでなければならない。その想いは、政府高官の一部の人にとっては切実だった。 しかし渡辺鼎夫妻が中心になった「束髪ひろめ」の会の趣旨はもっと生活的だった。第一点は束髪がそれまでの結び髷に対して衛生的、ということ。ただし、この時代の衛生的という意味は現在より幅ひろく、健康的という内容も含んでいる。束髪は長い髪をただぐるぐると巻いて留めるだけだから、軽く、髪油をつけないので汚れにくい。第二点は束髪がどんな不器用なひとでも、自分の手でまとめられ、商売人――髪結の手をわずらわせずにすむ。櫛笄や簪、根掛などの飾りものや、髪油もいらないから経済的、という。 束髪のそうした実用的な利点にもっとも早く着目したのは、女学校経営者だった。なかでも巌本善治の明治女学校は強力な協力者で、その『女学雑誌』はそれ以後束髪キャンペーンの中心になっている。 衛生的はともかくも、経済的、という点については、当然、髪飾りの業者や髪結さんたちが恐慌におちいった。小間物屋のなかには廃業を考えたような先走ったひともいたらしい。しかし束髪には束髪向きの髪飾りが必要だったし、髪結さんのほうもけっこう束髪のお客があって、胸をなでおろしたようだ。9月にはもう、東京銀座の小間物屋の、束髪用具の新聞広告が現れている。 たちまちのうちに山の手から下町まで波及し、奥さんからおさんどんまで、極々の年寄りの外はやや老いたるも若きも悉く束髪となって、一時は丸髷も島田も唐人髷も銀杏返しも丸で影を見せなくなった。 束髪のフィーバーはごく短かった。「奥様も、御新造も、令嬢も、娘っ子も、芸妓も、娼妓も、猫も杓子もみなこの風に化した」(「髷の沿革」『衣服と流行』1895: 83)という熱気は、1880年代(ほぼ明治10年代)をすぎるころになると嘘のようにさめたらしい。 1880年代以降の、ほぼ明治20年代の束髪の不人気の理由を、国粋保存の復活とする意見が多い。じつはもっと単純な、熱しやすく冷めやすい民衆のいつものこと、と見ることもできる。 たしかにこの時代の束髪は、すぐに飽きられやすいくらい単純だったことは事実だろう。高度に技巧的に発達していた日本髪に、全面的にとって代われるような、造形的な幅も豊かさもまだもってはいなかった。 其の頃の渡辺式束髪というのは三つ編みにした髪を引っ詰めにした頭のてっぺんに、支那人が喧嘩をするときのようにクルクルと巻いて針金のピンで留め、なにひとつ飾りのない極めて殺風景なものだった。其の後かがり目に屑珊瑚をつけた網を髷に被せたり、大きな造花の簪を挿したりしたが、之が亦極めていやみな下卑たものだった。 衛生的などということは容姿の美にとっては二の次ではないか、という批判が新聞の一面の論評にあらわれることもあった(→年表〈事件〉1886年12月 「読売雑譚―洋風束髪の事」読売新聞 1886/12/14: 1)。 それと同時に、好みを国粋保存にしむけていくような、外国風への敵意や、新しいもの嫌いもあったにちがいない。束髪キャンペーンのはじまったころ女高師に在籍していた女性は、こう回顧している。 束髪なんぞをする女は、まったく婦徳を欠いている、古来の美風を無視している、女の風上にも置けぬ人間、とこう私共はいわれました、否、罵られました。そして学校内ではよいが、寄宿舎から外へ出るときは、かならす日本髪に結えとさへ命じられました。 雌伏の時代の束髪は、上流階級に属する女性たちや、女学校出の山の手のお嬢さん、それから女教員など働く女性たちによって、なにかの証しのように守られていた。 1890年代(ほぼ明治20年代)から1900年代初め(明治30年代前半)にかけての束髪は、一般に前頭部のふくらみがまし、新聞小説挿絵などで見ると、後頭部を欠いた絶壁形の、西洋梨のようなスタイルが多い。1900年代初めの、下田歌子式といわれるのがこのスタイルで、ビリケン頭というとすこし口が悪いが。 1900年代初めの束髪は、概して全体が大きく盛りあがる。日露戦争当時に二百三高地といわれたスタイルは、頭頂の髷が円錐状に突出した形。それに対して前髪の部分が高くそびえたスタイルが下田歌子式といわれるものであるらしい。この時代を代表する才媛であり教育者だった下田歌子が、海外から帰朝してもたらしたものというが、彼女にはもちろんそんな意図はなかったろう。1903年(明治36)頃に流行しはじめた花月巻というのは、この下田式の台の上に一種独特の髷をつくっていたようだが、具体的な資料が乏しい。 またその一方で、1890年代後期には、後髪(たぼ)が下のほうに、襟もとにかぶさるように伸びる傾向もあった。つまり、後頭部に小判でもかぶせたように縦長となり、そのリファインされたスタイルがいわゆる夜会巻ということになる。 S巻や、イギリス巻、マガレイトなどという、縦型束髪初期のなつかしい名前は、束髪が廂髪全盛の時代になっても、まったく消滅してしまうということはなかったようで、新聞小説に登場するお嬢さんなどにも、廂髪と並んでときおり描写されている。 (大丸 弘) |