近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 220
タイトル 消える日本髪
解説

1901(明治34)年に刊行された『婦女かがみ―家庭教育』(文廼舎)は髪型の名を50あまり列挙した上で、「右の内今一般に行わるるものは左の如し」として、つぎの17種類を挙げている。島田、丸髷、銀杏返し、勝山、天神、三ツ輪、唐人髷、桃割れ、兵庫髷、おばこ、御盥(おたらい)、達磨返し、割唐子、ふくら雀、稚児髷、櫛巻、束髪。

このなかで天神髷は「粋なる社会の婦人間に流行すれど、下品なるを免れざるもの」とされ、御盥は「意気なる婦人間に行われたる髷形にて、芸妓の廃業者、或いは待合の女将などに用いらる、その様頗る軽薄なり」とされ、割唐子は「古風の髷形にて、踊りの師匠などのおもに結う髪形なり」とされ、おばこは「卑しげなる髷形にてして、きわめて軽薄に見ゆ」とされる(引用は『日本社会事彙』1891~1908)。勝山、兵庫は廓(くるわ)にのみ残っている髪型、達磨返し、櫛巻は洗い髪を仮にまとめたようなかたち。

関東大震災後(1923~)も女性の半数くらいは日本髪を結ってはいたが、ふだんはハイカラとよぶようになった束髪にしていて、正月や、なにかの慶事のときに結うくらいの人のほうが多かった。盛り場などで島田や丸髷の女性が、とくに目立つというほどのことはなかったが、ちょっと姿のいい人だと、やっぱり日本髪はいいねエと、見返る老婦人がいたりする。

1920年代の末(昭和初頭)になると、既婚女性の丸髷、嫁入り前の娘さんの島田、もうすこし若い娘さんの桃割れ、結綿(ゆいわた)、それから奥さんも娘さんも結う銀杏返し、日本髪の種類はこのくらいにかぎられるようになった。14、5歳の娘さんに長いこと好まれていた唐人髷も、女学校へ通う少女が増えてくるにつれ、みかけることが少なくなった。ひとつには唐人髷が、とくに東京では、雛妓の結う髪のように思われてしまったためもあったらしい。

もう見られなくなってしまった髪型への哀惜を、大震災の直前に、内田魯庵はこう書いている。とくに東京でのことだが、京阪でも大きなちがいはないだろう。

女の子が初めて結う「お煙草盆」、侠(きゃん)な十五六の娘が結う「男髷」、粋な中年増が結う「おばこ」や「お盥」、お妾さんの「三輪」、後家さんの「茶筅」、こういう髷は丸で見られなくなった。葬式の時に近親の婦人が結う〈毛巻き島田〉もツイ五六年前までは下町の町家の葬式では必ず見掛けたもんだが、葬列を廃して棺車を初め自動車で祭場へ送る様になってからは、此の淋しい情味のある髷も最早見られなくなった。
(内田魯庵「最近四十年の女の風俗」【婦人画報】1922/9月)

丸髷は欧米の結婚指輪のような役割をしていた。その印象を「主婦の髪としては、品の好い丸髷がよろしうございます、主婦たるものは、何事につけても威厳を持して身を作らなければなるまいかと存じます」というのにふさわしく、丸髷は非常に大きくなった。けれども、丸髷くらい色っぽい髪はない、と言うひともいて、現代のひとには理解しにくいだろう。 島田は第二次大戦後も婚礼の花嫁さんで見ることができる。もちろんカツラだが。髷が細めで高く結いあげるので、はでな髪だ。芸者も島田に結うが、髷はずっと低く、後ろに引かれたようになる。そのほうが粋な感じになるため。

銀杏返しはもともとは娘の髪で、そのため年輩のひとがふつうに結うようになってからは、それを悪く言う老人がいた。後ろから見て銀杏のようにも、また蝶の羽根のようにも見えるので、関西では蝶々といった。若い人にも年輩のひとにも、上品にも粋にも、髪結の腕次第で結える便利な髪だった。だから奥様でも娘でもない、料理屋の女中のような職業女性は、この髪以外に結う髪がなかった。家庭の女中さんも、たいていは小さな銀杏返し風に髪を結っていて、それを女中髷、などと呼ぶものもいた。

1910年代あたり(明治末)までは、女学校に通う娘の多くは廂髪かお下げだったから、お正月にはかわいらしい唐人髷に結って、隣の喧嘩相手の太郎に見せて、ドキドキさせてやれた。

1920年代(大正末~昭和初め)をすぎると、女学生のなかには小学校のままの、オカッパ頭の子もでてきた。そういう子は、4年生か5年生になるころから、髪を伸ばしはじめる。髪が長くなって、あの文金高島田に結ってお嫁に行く、という夢に胸をふくらませている、素直な娘さんがまだ多かったろう。

1930年代(昭和戦前期)になると、女学校の卒業後、むしろ髪を短めに削いで、アイロンを当てはじめる娘さんが多くなる。そういう娘さんは、もうふだん日本髪を結うのはむりだった。しかし洋髪洋装の花嫁さんはまだ少なかったので、高島田が結えるようになるまで、結婚を延ばすひともあったそうだ。髪の長さが足りなくても、ビンミノなど髢で補えば結えないことはないが、いい恰好にはなりにくい。島田の鬘を利用することは、最初のうちかなり抵抗があったようだ。

一方ですでに1930(昭和5)年に、ある美容師がこんな発言をしている。

この頃のお嬢さんたちの、お化粧や服飾を云い表すことばは、「日本髪が似合わなくなった」という一言に尽きているように思います。衣服をはじめすべての服飾品が、いかにも日本髪に不調和である上に、お化粧のしかた、それから表情、動作―どこから見ても不似合いなものになってしまいました。―又、日本髪を結うために生まれて来たかと思われるほど、よく似合う芸者達も、後ろから見ると、なぜあんな大きいものをゴテゴテつけているのだろうかと思うだけで、やっぱり美しいとは思われません。
(メエ・牛山「お化粧漫談」読売新聞 1930/2/27)
(大丸 弘)