テーマ | 美容 |
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No. | 218 |
タイトル | 男性髪型/ひげ |
解説 | ちょんまげが散髪に代わって以後の男性の髪型は、現代までとくにめだった変化はない。男性のヘアスタイルがマスコミにとりあげられることはあり、リーゼントスタイルとか、慎太郎刈りとか、マッシュルームカットとかいうことばを耳にしたり、写真で見たりすることはあっても、それは芸能人と、それをアイドル視する連中の世界のことで、大部分のおとなは自分のこととは思わなかった。男性の髪型の流行は理髪業と、一部の芸能人のなかにはあったが、男の世界にはほとんど存在しなかった、といってよい。 男はふつう自分の髪型というものをもっている。それは自分から選ぶというより、また自分に似合うかどうかということではなく、そう決まっていることに近かった。 太平洋戦争が終わるまで、男の子はほとんどバリカンの坊主刈りだった。都会ではごくわずか、坊ちゃん刈りの子がいた。坊ちゃん刈りの子に相撲のつよい子はいない、というような印象があった。小学校の一クラスにひとりぐらいはいただろうか。小学校にあがると同時に、坊ちゃん刈りから坊主刈りに変わる子もいた。 十代の男の子のほとんどはまだ坊主刈りだったが、商店の小僧さんなどには、もう髪を伸ばしてチックをつけているのもいる。20歳で受ける兵隊検査までは坊主刈り、というひともよくいた。 明治から昭和戦前期までを通じて、男性の髪は丸刈りか、角刈りか、伸ばすか、の3通りしかなかった。丸刈りは三分刈りとか五分刈りとか長さは好みで、前のほうを多少長めにするとかの工夫もある。軍人は坊主刈りだったが、三分刈りぐらいの将校はいた。丸刈りと坊主刈りとは別で、坊主刈りというのはお寺の坊さんのように、剃刀でつるつるに剃る頭だ、という人もある。子供の丸刈りを、俗に坊主刈りというのではないだろうか。 角刈りは明治時代の流行だった。うしろは丸刈りと変わらないが、前から見ると前と横の毛が長く伸びていて四角く見える。1890年代(ほぼ明治20年代)までは、フランス式とか言ってけっこうハイカラな髪型だったが、だんだんと品位が落ちて、親仁刈りとかチャン刈りとかいわれるようになる。大場理髪店の大場秀吉は言う、「角刈りはうっかりすると下品に見えるあたまです。(……)よほどうまく刈らないと頭が四角く角張ってきて、半天着でなければ似合わないようになります。勇み肌の人などには適しますが(……)」(大場秀吉「男子の頭髪の刈り方と諸注意」【婦女界】1926/4月)。 髪を長めに切って前を分けるスタイルは、最初はハイカラ髪とか言われて、商家の店員などに好まれたが、1900(明治33)年頃からは男性のほとんどがこの風になった。生まれつきの毛根の状態に従って、七三、あるいは六四に分けるひとが多かったが、きれいに分けて、いつも櫛目を入れているのは、銀行や大きな会社の勤め人で、そのためかこれをビジネスカットという。真ん中分けをする人はすくなく、大場によるとこれはスポーツカットといい、銀行家などに喜ばれる、といっている。顔立ちの整った人でないと似合わないともいう。 オールバックに撫でつけているひとも多かった。そういうひとのなかには、耳の周りや首筋に髪がかかってうるさいからと、ごくたまに、いやいや床屋の敷居をまたぐようなひとがかなりいる。江戸川乱歩の初期短編に出てくる名探偵明智小五郎は、もじゃもじゃの髪の毛を、いつもうるさそうに掻いている、というのが売物だが、それはべつに彼が日本人ばなれした縮髪、というのではなく、めんどうで手入れもしないということだ。 身なりについての関心の男と女の差は大きいが、とりわけ髪についてはそれがいえる。女性が美容院でセットして、それが気に入ってうきうきして帰っても、夫がまったく気づかず、妻をがっかりさせるという風景はめずらしくない。散髪に行くのは、髪の毛が長くなりすぎてうるさいから、というだけの男がいかに多いか。それはつねに理髪業者の嘆きだった。 今の人方はそう申しちゃちとなんですが、百人が九十九人迄は職人任せ、唯長く刈れとか、短くすれとか云うだけで、理髪というものは、長い髪を短く刈ればそれでよいもののように思って居られる(……)。 理髪業者の著わした技術書には、フランス式、アメリカ式の新しいヘアスタイルの紹介とともに、しかし、もっとだいじなことは、お客のひとりひとりの個性に合わせること、として、長い顔、丸い顔、鉢の開いた頭、和服の客、洋服の客、というような懇切な説明がある。しかしたいていの男客の考えている「自分」とは、顔の長い丸いよりも、職業であり、身分であり、気質だった。年季あがりの床屋の親方に、「いつも不機嫌な顔の、胃弱の大学の先生」にぴったりな髪型を決めさせるのは、むりな相談だったろう。床屋職人に顔や頭をいじられるのがいやで、子どもが歯医者を嫌うように、散髪を億劫がるお父さんは少なくない。 男性客の要求する自分らしくというのは、テレビや舞台のエンタテイナーがぜひ必要としている商品としての個性ではない。むしろ逆に、めだたない、平均的な、あたりまえ風なのだ。中年のホワイトカラーの客であれば、10人のうち9人までが着ているダークスーツ並みがまず目標で、まあ欲をいえば、プラスその人なりの価値観の小さな添加物、渋さとか、上品さとか、ちょっとだけスマートとかが、チラと出ればそれでじゅうぶん、ということだろう。だから人と目立って違うようなことは、なにより避けなければならない。という意味では、それなりに今風であることもだいじなのだ。 男性理髪に流行がないわけではない(→年表〈現況〉1915年2月 「近頃流行る髪と髭」国民新聞1915/2/23: 5)。 ただし少数の若者客以外、鏡の前の大部分の客は「唯長く刈れとか、短くしろとか言うだけ」の職人任せだ。しかしその客が内心で求めているのは、きのうの流行ではけっしてなく、きのうからはじまった流行の、なにげないスタイルで、それが注文の少ない、職人任せの客の注文ではなかったろうか。 髭(ひげ)を生やすことも開化の習慣だった。たまたまこの時代、とくにイギリスでは髭を蓄えることがはやっていたため、西洋人一般に対して、「ひげ」とか「赤ひげ」という別称がついた(→年表〈現況〉1902年9月 「握手の咎め」朝日新聞 1902/9/12: 5)。その外国人と接触する機会の多い政府高官や、学者などがりっぱな髭をつけるようになる。それが次第に中下級の官吏たちにも拡がり、「ひげ」とか「なまず」とかいう渾名がお役人につけられた。髭がもっと一般化したのは、日清戦争(1894、1895)後と、日露戦争(1904、1905)後だといわれるが、軍人を除けば、近代の日本の男性は、それほど髭に執着がなかった。 髭を生やす理由としては、顔にアザや傷があるためとか、外国で子どもと間違われるためとか、顔が貧弱だから、とかいろいろある。もっと精神的には、男を強調するためと、威張るため―その時代風にいえば威儀のためが理由だろう。戦前であると、男を強調することと威張ることは、ひとつことだった。威張る、は現代人がもう忘れかけている感覚だが、森鴎外のような知性人が、カイゼル髭を生やして、どんなときでも軍服を着て胸を張っていたのは理解しにくい。彼の髭は、後ろからでも先っぽが見えたそうだ。 カイゼル髭のように末端が跳ね上がった髭は専用の油をつけてかたちを整える。資生堂にも「プロミネン 住の江 ひげ油」という3個で90銭の製品があった。 ひげに用い給えば適当の粘力を生じ随意の形状を保ち且つ在来の品とは異なり洗い去ること容易なり(広告)(大丸 弘) |