近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 217
タイトル 丁髷から散髪へ
解説

政権が変わることによって、日常の装いが一変するという例は近代の歴史では少ない。中国における辛亥革命後の弁髪の廃止と、明治維新後の丁髷(ちょんまげ)の廃止とは、その少ない事例のなかに入り、対比させて考えるためのよい材料になっている。

新政府3年目の1871(明治4)年に、散髪、制服、略服、脱刀が勝手、という太政官よりの布令が出た。勝手、ということであり、散髪を強制などしてはいないし、丁髷をなくそうともしていない。新政府は男女の髪に関して、こののち特に口を出すことはなかった。

[時事新報]によれば、東京市内で1875(明治8)年頃、丁髷75パーセントに対し散髪25パーセント、1877(明治10)年頃は、散髪60パーセント、1881(明治14)年頃は散髪80パーセント、1883(明治16)年頃は散髪90パーセント、1888、1889(明治21、22)年頃には「殆ど丁字髷を見ざるに至れり」という(「理髪の沿革」時事新報 1898/8/7: 9)。

幕末、西洋の学問が解禁になると、西洋学を学ぶ者のなかに丁髷を切り落とす者がでたが、幕府は黙許していた。幕府はもともと異装に対してはうるさいのだが、頭髪についてはそれまでも医者は坊主頭か総髪がふつうだったので、面倒を起こしたくなかったのかもしれない。丁髷であるべきなのに敢えて断髪にしたのは、欧米崇拝の念からだという(山口花兄郎【風俗画報】1892/2: 38)。一方では洋学を学んでいる身で、武士に見られたいために結髪する若者もいた。『福翁自伝』によると、大阪の緒方塾の塾生の多くは地方の医者の子弟だから、もともとみな坊主頭か総髪だった。それが国を離れて大阪に出てくると、丁髷をつけて刀を差し、武士の風をして喜んでいた、とある。ひとの想いはさまざまだ。

海外の国々を見てきたトップたちや、訪れる外国人と折衝する新政府の当事者たちは、自分たちの丁髷を異装と感じるようになり、欧米人に使役されている清国人の長い弁髪と合わせて、短く刈った髪を文明のしるしと考えたのだろう。しかし髪のかたちがどうであっても、不衛生だとか、非礼だとか、公務が非能率になるとか、そういった実際的なマイナスはなにもない。

満州族が明朝を倒して中国を支配したとき、自民族の習慣である弁髪を漢民族に強要し、弁髪か、斬首か、と威嚇した。丁髷か、ザンギリかで、文明開化か因循姑息(いんじゅんこそく)かの叩けば音がするといわれたが、べつに首を切られる心配はなかった。つねに諸外国の眼を気にしている新政府は、けっこう小うるさいところもあったが、危険ともおもわれず、不衛生でもない風俗に関しては、人民の自主性に任せたのだ。辛亥革命後の中国で、早々に弁髪を切った若者のなかには、守旧派の憎しみを買うのを怖れて、弁髪の鬘をつけて外出したりしていた。日本の場合、ザンギリは官員や巡査などの権力者が率先したためそんな怖れはなかったが、民衆レベルでは似たようなこともあった。

1876(明治9)年6月の[読売新聞]によると、芝飯倉のある呉服屋で、店の者が散髪になりたいと言い出したところ、店の商売が唐物屋か舶来仕立屋ならそれもいいが、呉服屋の店の者がザンギリになるとは不似合いではないかと、旦那が妙な理屈を言った。それで店の者が、この節は昔の奉公人とちがって主人が頭の世話まで焼くには及ぶまいと、4人残らずザンギリになったので、怒った主人が4人に暇を出した、と。

翌77年2月のおなじ[読売新聞]には、日本橋では指折りという店で、店の者ふたりが断りもなしに散髪になったため、主人が怒りだし、散髪は不浄だからこの家には置けない、唐人の真似をする奴は追い出すといってゆずらない。この店は新聞売り子が軒下を通ると塩花を撒き、外国人が買いものに来ると、あとで荒神払いを頼んで家を浄める、というふうだそうだ、と。

また、1878(明治11)年6月新築開業の新富座に、こんなケチをつける投書もあった。「座が立派に出来たにもしろ、なんだ圧制に茶屋男まで散切にさせ、盲縞(めくらじま)の着物でなけリャア送り迎をさせねエの、ヤレ何だかだと面倒なこというから窮屈で真っ平ごめん(……)」(読売新聞 1878/7/10: 3)。下町の小粋な男の代表の、茶屋の若い衆―出方までがザンギリ頭ではたまったものか、という不満だ。

なにごとにつけても、古い江戸の風習は下町に多く残り、また商人よりも職人に、とくに世間の風に当たりにくい居職の職人に多く残った。ただしそういった、時代にとり残されがちなひとはだんだんと数も減り、年もとる。頭の毛の薄くなるのはしかたがない。未練髪、などと嘲られた明治20年以降(ほぼ1890~)の丁髷は、だいたいは哀れにちっぽけで、かつての大髻(おおもとどり)の魅力をとどめてはいなかった。

江戸時代、公家以外は額から頭頂までを剃りあげる習慣があり、この部分を月代(さかやき)といい、こういう髪を半髪と呼んだ。月代を残したまま髪をあげず、周りにオカッパのように下げたのを、ひとつ竈(べっつい)といった。額の毛を剃らず、頭の毛を伸びるままにするのは総髪といった。たいていは後ろで小さく束ねるが、オールバックのままを撫付髪という。半髪の丁髷からザンギリになるあいだに、ためらいのためか、ひとつ竈や総髪にしていた人も多かったようだ。ひとつ竈や総髪は、江戸時代には特殊な身分、職業のひとにだけ許されていた髪型だったが。開化後のある期間、お上からの指示のないまま、髪型については百鬼夜行の状態だった。

当節はいろいろな頭があります。(……)マア見悪(にく)い第一が一つ竈、その次がチョン髷、夫れから毬栗、其外にも、髷になる下地が長々と延びて居る人も有りますが、結髪は躯の為にも成りませんから、一同も散切りにしたいものでは有りませんか、皆さん。
(読売新聞 1876/4/20: 4)
(大丸 弘)