近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 美容
No. 210
タイトル かつら/かもじ
解説

近代の結髪業に通用したことばとしては、鬘(かつら)とは、他人の毛を植えたかぶりものをいい、一方、髢(かもじ)というのは、髪の「か」の字を使った女房ことばで、本来は髪そのものを指すのだが、この時代では入れ毛のことになっている。しかしこの時代、カツラに、仮髪という字を当てている人もあり、業界以外での使われかたはいろいろだったようだ。英語でのウィッグ(wig)、ファルス・ヘア(false hair)に、入れ毛、かぶりものの区別はないらしい。

カツラは、もともとは舞台の扮装用に使う小道具の一種だった。役がきまるとその役にむいた髪型を、鬘屋と床山とが協力して、実際にそれをかぶる役者の頭の上で工夫しながら製作する。「衣裳の我慢はできるが鬘の我慢はできない」といわれるように、個人差の大きい頭へ堅い金属の、いわばタガを嵌めるのだから、おなじ役でも人が変わるごとに新しく製作しなければならない。

歌舞伎の床山、鴨治虎尾はつぎのように説明する。

鬘の台金を造る、それに毛をつけて、すっぽりの青黛とか月代(さかやき)をそえ、時には仕掛物の火傷とか菊石(あばた)などを整えるのが鬘屋の仕事で、これを結いあげて、開演中、俳優に対する鬘の取り扱いから、保管手入れなど一切の仕事をするのが床山の仕事。
(鴨治虎尾「歌舞伎床山芸談」1983)

カモジは、毛の少ない人、部分的に禿げた人などが、入れ毛とか、足し毛とか、附け髪とかいって重宝してきた。

島田に根かもじ、蝶々に横毛、鬢にびんみの、髱(たぼ)につとみの、前髪に前髪立てやら前髪みのなど、弁慶も及ばぬほどの諸々の道具を頭に乗っけるので、かもじ屋さんが喰ってゆける。
(大阪朝日新聞経済部『商売うらおもて』1926)

1911(明治44)年の[時事新報]上に「附髷の今昔」という連載記事を書いた髢屋の言うところでは、1879(明治12)年にこの人が商売をはじめたころには、東京でも附髪づくりの人がめずらしく、この人も鬘屋に通いつめて基本的な技術を習い覚えた。開業早々から注文に追われつづけ、まもなく同業者がふえてきた、という。この人の方法は頭の地に似せた色の羽二重に人毛を植え、それを禿げた部分などにゴム糊で接着する。ということは、とりわけ、大きな禿のある人に向いていることになる(時事新報 1911/12/16: 10~)。

この[時事新報]の記事と対応するように、1880(明治13)年の[読売新聞]には、つぎのような雑報記事がある。

此節、女の附髪が大流行にて(……)意気にも人柄にもお好み次第に出来、又都合の能(よ)いというは寝るときそっくり外して寒い夜などには頭から(布団を)ひっ被って寝ても毀(こわ)れる気遣いもなく(……)夫婦喧嘩で引きずり倒されでもする時はスポンと外して逃げ出すにも便利(……)。
(読売新聞 1880/11/7: 4)

髪の毛の豊かさを自慢にし、大きな髷を結っていた日本髪時代の女性は、髪の毛の薄くなることをなにより悲しんだ。年寄りの髷というと、若い人にくらべてとにかく小さく結っているのが特色だが、それはそうせざるを得ない、という理由もあったろう。また、年輩の女性は、たいていは頭のてっぺんに大きな禿をもっていた。これは日本髪が根をきつく引っ張るので、長いあいだに毛根が痛むためという。

禿隠しにせよ、また少ない毛を補うにせよ、髢は日本髪の時代が束髪の時代に変わっても、重宝して使われつづけていた。1905(明治38)年の【風俗画報】には、大阪市中に「かもじかのこのいけあらい」と呼んで歩く商売人がいて、ほかに女持ちの煙草入れとか、襦袢の襟(半襟)、羽織の紐など、脂汚れしたものを専門に洗う洗濯屋のことを報じている。この記事はつづけて、東京にはこのような営業人はなく、たいていは自家にて洗うのがふつうで、外に出すなら髢は髢屋、と書いている。水道の引けた時代になっても蛇口は台所の一カ所だけ、お湯が出るわけではなかったから、脂汚れの物は洗いにくかった。また髢は大きいものになるとけっこう人の髪ぐらいの量になるから、洗っていても干してあっても、子どもなどはうす気味わるがった。

髢も鬘の毛も原料は人毛以外にはない。ふつうは抜毛を集めて利用するのだが、いろいろな理由から――出家のために髪を下ろすとか――一時に大量の毛がでることもある。西南の役のあと、薩摩の兵士がおおぜい討死し、きっと髪を下ろす夫人が多いだろうと、鹿児島県でその毛髪を買いまくって、巨利を博した大阪商人がいたそうだ。

ひとの髪の毛は案外丈夫なものらしく、本願寺の御修理などというと、用材の巨木の引綱には、信者の女性たちが髪を下ろしてそれを役立てた。眉唾だが、初期の海軍軍艦の繋留綱にも、髪の毛が編み込まれたといわれる。

大きな日本髪に較べて束髪の軽快さがよろこばれたのは、1890年代末(明治30年代初め)までだった。いわゆる廂髪の時代に入ると、廂、の部分だけでなく、束髪は全体にふくらみだす。大きくするためのいちばん素朴な方法は「あんこ」を入れることだった。あんこには比較的軽い縮れ毛の入れ毛、赭熊(しゃぐま)をつかう。ほんらいは熊の毛だというが、ふつうの毛を加工したものだろう。おかげで巨大な廂髪も、見た目ほど重くはないが、汗に蒸れて、しかもめったに洗わず、あまり油をつけない束髪のにおいは、お嬢さんに近づこうとするハイカラ紳士を辟易させたらしい。

日本髪の衰退とともに、髢の需要は急速に少なくなり、1930年代(昭和5年~)になると町中で髢屋の看板を見ることもまれになった。ただし、洋髪に髢が不必要、というわけではない。

洋髪の特点は、見るからに軽やかな(……)所にあるのですから、なるべくならば、すき毛、かもじ等はあまり使いたくないと思いますが、しかし特別に前が薄くて困るとか、鬢の毛がすくなくて困るとか云う方々には必要なもので、近来誠に重宝なかもじが、色々出来てまいりました(……)。
(大場静子「かもじの選び方と入毛の仕方―洋髪かもじの種類と用い方」【婦人倶楽部】1928/6)

筆者はここで、三ツ形かもじ、みの毛、チェーン、を紹介している。

髢屋に代わって伸び上がってきたといえるのが、鬘屋だった。鬘はレンタルもあって、花嫁さんは貸衣装屋や美容院から借りたが、いちばんの需要家だった芸者などは、自分の頭に合わせたものをいくつも持つようになった(「朝のベーブのボブ姿が、夕べには粋な文金高島田―断髪、薄毛、若禿、御安心なさい 世は鬘時代か」時事新報 1935/1/11: 6)、というスイッチが、遊客や、時には夫の仇心を刺激したのかもしれない。もっともそれは、一方でまだ日本人が、日本髪の魅力を記憶していた、わずかな期間だけのことだったが。

(大丸 弘)