テーマ | 美容 |
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No. | 202 |
タイトル | 和風濃化粧 |
解説 | 一時的な流行をべつにすれば、日本の女性はつねに、肌の色の白い美しさを、ほかのなににもましてあこがれてきた。七難隠す、といわれたとおり。それを実現するために用いるのが白粉(おしろい)だから、白粉はいつも化粧料の主役だった。 肌の美しさを損なうのは色黒だけではない。とりわけ疱瘡は器量さだめといわれ、大正の初め頃までは、白粉で隠せる程度のうす痘痕(あばた)まで入れれば、町なかでザラに見られた。アザ、傷跡などはべつとしても、そばかすや、多すぎるほくろ、しわ、シミ、不健康な顔色の悪さなどは、どれも美しさを損なう。しかし白粉を厚塗りすれば、それらはたいてい判らなくなってしまう。白粉を厚塗りした顔は白壁とおなじだから、健康な血色のよさは隠れて、生気のない顔になる。唇や頬そのほかにうっすらと紅をさせば華やかな顔にはなるが、それは健康な素顔のツヤとはちがう。また素人の女性は、ふだんはあまり紅は用いなかったようだ。 眉をおとし、歯を黒く染めて、髪の生えぎわから背中の奥まで白塗りする化粧法が、東京下町の商家のお内儀の、1880年代(ほぼ明治10年代)までの標準的な化粧法だった。しかしそれでも、上方女性にくらべればずっと淡粧といわれていた。山の手のお屋敷の奥様方もそうだったが、かつて武家の女性は、家にいるときは町家の女性ほど化粧しなかったというから、その風はつづいていたろう。 東京の素人にて中流以下は殆ど化粧の法を知らぬという如き有様にて、極めて淡泊(あっさり)づくり、というのは1897(明治30)年9月の【都の華】の観察だが、その淡泊は、あくまでもその時代の基準だ。ただし、化粧は住む環境のもたらすものであるとともに、そのひと個人の問題でもある。となりあって、似た商売で、暮らしむきも変わらないのに、一方の奥さんは白塗りの厚化粧、もうひとりの奥さんはいつも素顔同様、といったことは、いつの時代でもめずらしくない。 江戸の女の淡粧は、天保改革の贅沢禁止の余波が、幕府のお膝元ではあとあとまで尾をひいたためともいうし、威勢のいい木場職人を相手にする深川芸者が、気っぷのよさに染まっていたのだともいう。髪は油をつけない水髪で、寒の内でも素足、襟をぐっと引き下げて寒風でも「ああいい気持ち」と痩せがまんする、そんな妓に厚化粧はそぐわない。 1910年代(大正の前半)ごろには、いろいろな点で江戸風はもう過去のものになりかかっていた。そのころ20年ぶりに東京に出てきた人が、東京の女の顔が白くなったのには想像以上でおどろいた、と言っていたそうだ(前田曙山「女の白さと江戸趣味」【風俗画報】1916/1月)。 深川芸者に代表されていた淡粧は廃れて、女性はだれもべっとりと白塗りをするようになっていた。日露戦争後、しばらくして欧州大戦に入ったこの時期は、女性の身なりのぜいたくさが加速していた。攻撃の的になりながら、そういうぜいたくのモデルになっていたのは、最初は帝劇の、それから活動写真の女優たちだった。もりあがるような女優髷に結った彼女たちの、ブロマイドのなかの笑顔は、例外なく白壁のように塗られている。 芸者のなかにさえ、むかし風に薄化粧が好き、なかには化粧嫌いとさえいわれる妓がいないではなかった。しかしそんな芸者は、あの妓は肌自慢なのさと、陰口をいわれるのを気にしていた。 白粉については、気にかかるひとつの問題があった。それは白粉の成分である鉛の有害性についてだ。この問題が提起されたのはずいぶん古いことで、1878(明治11)年に、脱疽というおそろしい病で手足を失って死んだ名女形三代目沢村田之助や、そのあと井上伯爵邸での天覧歌舞伎で発病した、四代目中村福助の事件が、世のなかに衝撃をあたえている。しかしそれはあくまでも、大量に白粉をつかわなければならない役者のことで、素人の女性には関わりないことと、一時は信じられていたものが、それどころか母親のつける白粉が、乳児の脳膜炎の原因になっている可能性がある、という意見が現れ、問題が再燃した。無鉛白粉の製造、販売は1890年代半ば(ほぼ明治30年前後)からおこなわれだしているが、法的規制はかなり遅れている。 母親の白粉が乳飲み子に害を与えた理由は、日本女性の白粉の習慣が関係あるにちがいない。この時代はまだ江戸時代の、きものの前をひらき気味に着る着かたがのこっていた。そのため女によっては、白粉を乳のあたりから、大げさにいえばヘソの近くまで塗るひとがあった。近松門左衛門の『心中宵庚申』(1722)のなかのセリフ、「女の懐には鬼が棲むか蛇が棲むか」といった時代ほどではないにしても。 日本髪の髱(たぼ=後髪)がつきでて、抜き襟をしなければならなくなった時代には、首筋から背中のほうまで、顔とおなじように白塗りをした。この襟あしが、その時代の男にとってはたまらなく色っぽいものだったらしい。そのため化粧するときは肌ぬぎになって、溶いた白粉を刷毛で背中のほうまで塗る。八代目桂文楽がよく演じた落語の「つるつる」では、芸者が鏡台を前に肌ぬぎになって化粧をしているのを、おなじ家に住んでいる幇間(ほうかん)が、「(……)いいお乳ですね、麦饅頭に隠元豆をのせたよう(……)」とからかう場面がある。この時代の女性、とりわけ芸者稼業の場合は、現代ほど、乳を見せることを恥じもしなかったらしい。 襟白粉が欠かせなかった時代、銭湯の鏡の前は、顔から背中にかけてのお化粧を長々とする女性たちで、割りこむのも大変だった。「一体湯屋へ行って白粉をつけるというのは芸妓か茶屋女に限るようだが、この節は立派な表店の娘たちが我も我もと始めましたが、品行の悪いことではありませんか」(→年表〈現況〉1876年5月 「湯屋で白粉をつけること」読売新聞 1876/5/22: 4)という記事がある。 胸や首すじを白くする化粧法は、昭和期(1927~)に入るころから、若い女性をはじめに廃れだす。きものの襟をつめて着る、女学校風の着方が支配的になったことがそのなによりもの理由だろう。それに対しては、近頃の娘は顔ばかり白いが、首すじは真っ黒、という、老通人からの小うるさい呟きがしばらくのあいだつづいた。 (大丸 弘) |