| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 117 |
| タイトル | 裸体と露出 |
| 解説 | 維新当初、新政府が頭を悩ました問題のひとつは、民衆の行儀の悪さだった。外国人に日本人が未開野蛮の民とみられることを、条約改正のことも念頭において新政府は怖れていた。実際、残された幕末明治初頭の写真を見ると、その時代の肉体労働者に褌(ふんどし)一本の男の多いのに気づく。裸写真には女も少なくないが、女のほうは演出写真が多いだろう。もっとも女も、肌を出すことをそれほど気にしていなかったらしい。「昔は女は細帯ひとつで、夏になると褌と襦袢で平気で歩いた。余程よい所の者でなくては帯はきちんとしめては居なかった」(『江戸時代漫録』)。その日暮らしの人々の話だが、夏の暑さの一層きびしい大阪の女はもう少し大胆だったようで、【風俗画報】にも紹介された西成郡伝法村の風俗などはよく知られている。1900(明治33)年頃でも、大阪の女性は肌を脱いで人に接することをなんとも思わない、と言っているひともある(読売新聞 1901/9/9: 3)。 肌を現すことの規制「裸体にて歩行及職業等致す間敷」といった町触、府令、警察令等は、新政府発足当初からくりかえし出された。これと関連してうるさくいわれたのは、男の立小便と、銭湯での混浴だった。立小便については早くも1868(明治元)年の横浜市中御触に、往来端で人の見るのも構わず立小便するのは甚だ不作法であり、「外国人へ対し候ては、別而恥入候儀に付き」このようなことのないようにと、戒められている。しかしこの不作法は第二次大戦後まで持ち越される。 立小便にくらべれば混浴――男女入り込みの湯のほうは、公衆浴場の営業に関するものだったから、取締りは容易だったはずだ。しかしおそらく、従来風の設備を改築する費用の問題から、それほどすんなりと政府の意が通ったわけではなかった。入口だけを女湯男湯に分けたり、湯船のなかに申し訳程度の仕切りをしてみたり、あがり湯の汲み場から女湯の流しが見通せたり、などの違反例がみえるが、薬湯と称して男女を入れ込みにして罰せられた例がある。温泉では病人介護のため、例外が認められていたのだ。 江戸時代の代表的な裸商売は駕籠舁(かごかき)だった。明治になってそれに代わったのが人力車夫だ。人力車夫の着衣については、半天股引を身につけるべきなのに、半股引も着けずに商売する者が多く、たとえば1883(明治16)年のまだ夏にはなっていない5月、説諭を加えられた車夫が1日だけで223人あった、という記録が残っている(→年表〈事件〉1883年5月 「人力車夫に説諭」読売新聞 1883/5/16/: 1)。 不作法者に対する政府の焦燥感は、取締りの神経質さにも現れている。家のなかで裸になって蚤(のみ)を取っていた女性を、たまたま外から目撃した巡査が、家に踏みこんで拘束し、裸のまま交番に拉致した、という事件などもその例に入る。 行政のこういう意志は思いがけない日本人の風俗にも波及した。各地の滝壺や、お不動さんの水行場での、男女入りごみの水垢離(みずごり)が非難された。五代目尾上菊五郎は、従来の舞台番が、尻をまくり膝をむき出していたのを、不体裁として改めた。 概していえば前代までの日本人は、十分好色ではあったけれど、その一方で、自分が裸になることも、ひとの裸にも――それが異性であっても、さほど気にしないよう習慣づけられていた。 女学校での体重検査に、生徒を素裸にした福島県の女学校があった。しかしそれが表面化したのは、ふたりの教諭が強硬に反対したためのようだ(→年表〈現況〉1904年4月 「生徒裸体事件」東京二六新報 1904/4/21: 3)。その一方で、つぎのような投書もあった。「日本橋の某小学校で、女生徒の体格検査がはじまったので、私の家の娘はいま高等科四年生(13、14歳)ですが、退学させました(娘の母)」(読売新聞 1899/6/8: 4)。男女混浴がおこなわれなくなっても、男性の三助は女湯のなかを平気で歩きまわっていた。 盗みを疑われた女性が素っ裸にされるということも多い。有名呉服店で万引きを疑われた女性が裸にされたあと、品物がべつのところから発見され、店が告訴されるという事件があった(→年表〈現況〉1881年11月 「万引き容疑の女性と少女、素っ裸にされる」東京日日新聞 1881/11/14: 4)。岡山県のある高等女学校では、月謝の5円札が紛失したため、3年のある組の全員が素裸にされ、男女数人の教員のチェックを受けた。こうした実例はたいていは明治期のものだが、ずっと時代が下がっても、電車やバスの男女車掌は、終業後に着衣をぜんぶ脱いで身体検査をうける、という規定になっていた。 夏になれば亜熱帯といってよい温度になるわが国の人々が、夏でもコートを着るような地域の人々と、素肌を見せることが同じ意識であったとしたらむしろ不自然だろう。住居がそうであるように、ヨーロッパの衣服は肉体を包み覆うことに努力が注がれ、その結果として逆にあらわすことの意識が強められたのだ。風を入れるために襟を抜いたり、赤ん坊に乳を含ませるためにむき出した胸や肩と、バル・ドレス(ball dress)の胸や肩とは、肉体そのものは同じであっても、その肉体をもつひとの自覚の昂ぶりがまったく違っている。 江戸時代の日本人は、性行為の場合も着衣のままであることが多かったのは、多くの春画からも推測される。それは開化後もそうは変わらなかったふしがあり(→年表〈現況〉1912年1月 「本妻になろうと妊娠出産したふり……和歌山県御坊町」報知新聞 1912/1/28: 夕 7)、昭和に入っても、長年つれそった女房の太股に大きなアザのあったことに、初老の夫がそれと告げられるまで知らなかった、というような話もある。自分の裸を見せることに愛情の証しを示そうとする感情は、わが国では第二次大戦のあとになって、映画がもたらした舶来習俗のひとつだったようだ。 1920年代に入るころには、からだをあらわすことについての欧米的な良識が、ようやく日本人の身についてきたかと思わせるフシもある(→年表〈現況〉1925年6月 「夏の女性の薄着姿に対する警視庁の見方」読売新聞 1925/6/8: 7)。皮肉なことに、第一次大戦後のフラッパーの時代、欧米では手足をむき出しにしたり、からだの線が丸見えのようなドレスを身につけることがファッションになった。 丸の内のペーブを踏むモガたちの、膝小僧の見えそうなショートスカートからのびた素足や、夜の銀座をそぞろ歩く奥様方の、乳房の膨らみの透けて見えそうな絽の単衣が、どんな文化を背負っているのかはむずかしい問題だ。 (大丸 弘) |