| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 116 |
| タイトル | 小便の問題 |
| 解説 | 明治新政府の発した最初の軽犯罪法規である、1872(明治5)年の東京府違式詿違(いしきかいい)条例の中に、「第49条 市中往来筋ニ於テ便所ニアラザル場所ヘ小便スル者」という項目がある。 男性の往来での立小便の習慣は、銭湯での男女混浴などとならんで新政府にとってはあたまの痛い問題で、開港地の横浜ではこの条例以前にすでに禁止のお触れが出ている。たしかに市街地で、建物の壁や塀などに向かって放尿することは、欧米では泥酔者でもないかぎりまずありえない。当時の中国でも日本人のこの悪習は嫌われたらしく、1873(明治6)年に清国在留日本人に対して、往来で大小便しないこと、という項目を含む太政官布告が発せられている(→年表〈事件〉1873年10月 「清国在留日本人の心得方規則」郵便報知新聞 1873/10/10: 1)。 人通りの少ない道の塀、電柱の蔭、露地口、とりわけ繁華街や赤提灯の通りを一歩入った板塀などには、小便でペンキが剥げ、変色している部分さえあり、そういう塀には小便無用とか、赤い鳥居の絵が描いてあったりした。1908(明治41)年3月15日の[都新聞]の第1面に、つぎのような投書が掲載されている。 私は芝区今入町の者ですが、当地近辺には琴平社内に一か所の不潔な便所があるばかりで(……)、それ故私共近所の路次口と申す路次口は、宛(さなが)ら共同便所のようになり、通行の方は平気で入変わり立変わり放尿して参ります、その都度制止は致しますが、いつも後の祭りで何の役にもたちません、金刀比羅様の縁日などは殊に甚だしく、この十日の日などには数えておりましたら五十人近くもありました、一層路次口を閉めろと仰しゃるかしれませんが、路次内に住居している者の通行口ですから左様はまいりません、それですから路次内の臭気と申したらひどいものです。 これに対して記者は、「東京市民は全然礼儀作法を知らない放恣(ほうし)野蛮の人民であります、何という恥ずかしい仕鱈(しだら)ないことで有りましょう」と嘆いている。 第二次大戦ごろまでは、けっこういい身なりをした妻が、夫が物陰で立小便しているのを、少し離れたところに立ちどまって待っている、という光景さえあった。だからまた、男女連れで男が立小便するような場合は、ふたりのあいだには関係があると見て間違いない、というような説もあった。もっとも地方へゆけば、女性の立小便もめずらしくはなかったが。 「外国人の見る眼も恥ずかしい」この悪習慣をなくすために、大都会では公衆便所の設置が急がれた。道端に小便壺を置いておくことは江戸時代からあった。また長屋には総雪隠があって、長屋以外の者が使用したからといって、べつに文句は言われない。排泄物が溜まれば、近隣の農家が代価を払って引き取っていったから。 行政による公衆便所の設置はなかなか進まなかった。できたとしても不潔で、汚いものの三幅対として、東京の共同便所、不精者の歯糞、山師の料簡、などという新聞の投書がある。共同便所の周辺や、その壁に向かって放尿する者さえあったということは、共同便所の中の汚さ、臭さを想像させる。 明治前半の東京には何年かの間隔を置いてコレラの流行があり、相当の犠牲者を出した。コレラの伝染は迷信的にまで怖れられ、これが共同便所や裏長屋の総雪隠の改善に役だったことと思われる。しかし共同便所の構造はわりあいいい加減なものが多かった。大阪市内の共同便所についてだが、「便所の構造の不完全なるにより、○○のチラチラ露わるるゆえ、往々通行人が尻目で之を睨んで行くこともあり、其処で小便をやらかす者の赤面すること、私が毎度経験する事実で御座る(……)」という投書があった(→年表〈現況〉1886年7月 「投書―大阪市内の共同便所」大坂日報 1886/7/28: 2)。 昭和に入っている1931(昭和6)年の[東京日日新聞]に、「女性の声」として、つぎのような投書がある。 男子の方は所かまわずに放尿なさいます。これは年中のことながら、昨今のように 寒くなりますとますますはげしく、ちょっと外出しても二三人は見ます。(……)殊にひどいのは、毎日きれいに掃除しておく門の脇や板塀まで、汚して行く人さえあります。(……)道路に放尿するのを禁じられていることは誰しも知り抜いていることです。女性が自禁出来る如く、男性としてもがまん出来ないことはありません。私は永年支那に住んでいたことがありますが、あの苦力(クーリー)でさえも、道路を汚しているのを見たことはありません。自ら文明国を誇る日本国民としても、実に恥ずべき事でございます。どうぞ男子の方々のご反省をおねがいいたします。 立小便とは次元の違うことだが、日本女性のトイレに行く頻度の多いことも、早くから知られていた。北里柴三郎医博は外国生活の経験から、日本婦人の不行儀のひとつとして、小用を耐えることができず、一日のうちに幾度も幾度も便所に通うという点を指摘している。外国婦人と入り交じって舞踏会や音楽会に出ても、日本婦人ばかりは途中でこそこそ立って、便所の通路に押し合いをしている。今俄(にわか)に奥さんやお嬢さんにあなたは無暗に小用にいってはいけないと言ったら、あるいは健康を害するようなことがないとも言えないが、外出の前はできるだけ飲み物を控えるなどの心掛けとあわせて、これは幼いときからの習慣、あるいは訓練の有無によるのかもしれないと(→年表〈現況〉1910年3月 「日本婦人の不行儀」時事新報 1910/3/16: 9)。 (大丸 弘) |