近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 115
タイトル 排泄とその設備
解説

もともとたいていは水の豊かな環境に集落をつくり、しかも解放的な構造の住居に住む日本人は、排泄についてはおおらかだった。厠(川屋)ということばもそれを示している。

しかしもちろん現実には、よほどの田舎でもないかぎり中近世の便所は、排泄物を一時的に溜めておく糞溜のしかけと、その場所をできるだけ日常生活の場から遠くする、という家の間取りの工夫とがなされていた。

明治期の家政書には、家のなかの便所の位置として、「縁側の端より折り曲がり、床の間押入の裏手にあたり、人目に触れぬところに置くを適当とす、日を遮り風を防ぐよう、常磐木(ときわぎ)の種類を植こまばさらに宜し」とある。植えこみには香りのつよい金木犀がよくえらばれた。

便所自体の一般的構造としては、臭気を抜くために上下に小窓をつくり、出入口の戸は内外より鍵がかかるようにする。外鍵は掃除口(汲取口)から入る泥棒が少なくなかったため。排泄物を溜める大瓶は下須瓶(げすがめ)という言い方があったらしい。ここから臭気が上がらないように、また蠅が入らないように、便器に蓋をすることがひろく推奨されていたが、厄介なためあまり普及していなかったようだ。1920年代(大正末~昭和初め)になると、ふつうの住宅でも大便所と小便所とを区別することがはじまる。

また用便後の手洗いは、それまでは戸の外に手水鉢(ちょうずばち)があり、手拭きがさがっている、という景色が多かったが、衛生的配慮から溜め水の手水鉢が小さな水道の蛇口にかわり、ひろい家ではさらに、手洗いの小部屋が設けられるようになった。便所をお手洗いとよぶことはそのころからはじまったのかもしれない。手洗いの小部屋は洗面所とよばれてじっさいに朝の洗面や歯磨きはそこでする。洗面所を通って便所へゆく構造の家は、便所の扉と洗面所の扉の二重の障壁があることになる。

便所の臭気をいかにやわらげるかは、溜置――汲取式便所の最大の課題だった。便所の設置位置を遠くにする、小便所を設ける、手洗い・洗面所を設ける、蓋をする、また各種の臭気止め薬剤を用いる、等々の工夫はあっても、水洗化以外に根本的解決の方法はない。水洗化のアイディアは明治以前にも皆無ではなかったが、結局は浄化装置と、下水道の完備という都市インフラの問題に帰着する。東京の三河島に、日本最初の下水処理場ができたのは1922(大正11)年のことだった。その後各地で下水道と下水処理施設の事業がはじめられ、東京では1936(昭和11)年に〈市街地建築物法施行細目〉の施行に伴い、私設下水道の告示区域内では、家屋の新築の場合、水洗便所でなければ認可しない、在来の汲みとり式便所は5年以内の改造を要するということになった。4年後の東京オリンピック開催に備えてのことだ。けれども太平洋戦争でオリンピック開催も水洗便所も夢となり、一般住宅に水洗化が普及するのは、東京のような大都会でも第二次大戦以後のことになる。

いまでも地方に残っている旧武家屋敷や、名主屋敷の便所のなかには、便所というより小座敷と言ってよいような造りのものがある。旧江戸城の伝説の落し甕のように、地下数丈もの深さに甕を埋めるとか、車のついた小函に排便して、いちいち外に引きだして、べつのどこかに捨てるとかいう排泄物処理の工夫もさることながら、畳敷きで花まで生けてある座敷の中央に金隠しがある、という発想のほうにより興味がわく。これはかつての大名屋敷などはみなそんなものだったのだが、その近代版というべきものも、高級料亭などには存在したようだ。

東京の有名な常磐亭という牛鶏肉料理店の厠の中には脇息(きょうそく)がそなえてあるとのこと、又江の島の旅店恵比寿屋の厠は、入口の木連れ(きづれ)格子を明けると、真紅総角つき黒縁の衝立が立ってある、すべて厠内は格天井で蛇腹は金箔押しの無地、うえは極彩色の花丸の絵で、柱は悉皆(しっかい)唐戸面がとってある、便所のなかは二枚畳で、傍らに地袋棚、違い棚があって、何れも蝋色塗り筆返しつきで、袋戸は桐の鏡板に胡粉置きあげの菊花が書いてある、そして違い棚の上には、一輪挿しの花入れに香炉などが飾りつけてある(……)
(【流行】(流行社)1901/5月)

こういう贅沢もけっこうだが、そんなことよりも真っ白いタイルのトイレの清潔さで十分、いやそのほうがずっと快適、と考える人はその時代でもいたにちがいない。なかには谷崎潤一郎のように、湿りけのなかに微かに木の匂いのする、古い木造家屋の厠の懐かしさに執着する人もあったようだが。ついでながら谷崎は、真っ白できれいに揃った女性の歯を、洋風トイレのタイルのようだと言ってきらう人だ。

便所を気持ちよいものにする工夫のなかで、現代人にとって理解できないのは、大戦前の日本人がなぜ、洋風便器の楽さに無関心だったのか、ということだ。和式の、しゃがみ排便は痔疾の原因になるし、とにかく苦しいという点だけでも身体によいことはない。よくされた笑い話に、いけない恋を思い切るには、その女性がお便所でしゃがんでいるポーズを想像するのがいちばん、などと言ったものだ。人の座った便器にお尻をつけるのは気持ちがわるい、というのが洋風便器をきらう大きな理由だったが、こういう潔癖感は洋風便器に慣れた西洋人も持っていないわけではなく、駅のトイレなどでは、便座に靴履きのままあがって滑り落ち、怪我をする人がよくあるそうだ。

個人住宅の便所以上に問題が多かったのは共用便所だった。明治期を通じて、東京の下町地区は表通りを一歩入ると、総雪隠(そうせっちん)の、つまり便所を共用とした長屋が多く残っていた。1910(明治43)年に東京市が貧民救護の一策として、浅草に公営の長屋を建設しているが、この場合も台所は各戸に設けながら、便所については共用だった(→年表〈事件〉1911年9月 「市設貧民長屋」朝日新聞 1911/9/26: 5)。共用便所のすべてが不潔というのではもちろんないが、ごく少数の不心得者のために、全体のなげやりな気分が生じやすい。ある身分の高い奥様が、都心にお出かけのおり、にわかの腹痛に耐えられず手近の総雪隠を利用した。そのあまりの不潔さのため奥様は神経を痛めて、しばらく寝込んでしまったという話もある。

(大丸 弘)