テーマ | 身体 |
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No. | 114 |
タイトル | 入浴 |
解説 | 日本人の入浴好きは明治初(1968)年に来日した欧米人にも知られている。しかし日本の夏の蒸し暑さを知れば、とくに日本人が清潔好きだから、という理由ばかりでないことも理解したろう。あわせて欧米人、とくに医師たちは、日本人の入る湯が熱すぎることも警告している。おなじころ外国旅行した日本人は逆に、西洋の湯はまるでひなた水のようだと、口を揃えて不平を言っている。またシャワーのことは夕立風呂とよんでいて、わが国では水道の普及後もあまり利用されなかった。 日本人、というより江戸っ児の熱湯好きは、湯屋から家に帰るまでのあいだに身体が冷えないように、との配慮がそもそもの理由だったにちがいない。江戸時代から明治にかけて銭湯はほとんどどこの町内にもあり、少なくとも八百八町という町数より多かったが、それでも冬の夜などは、家に帰るまでに、下げている手拭いが棒のように凍ってしまうことがある。日本人は湯に入るとき、温まることをまず心がけた。ひとによってはゆで蛸のように。母親は幼い子に、肩までちゃんと浸かりなさいよ、と注意した。さすがに女湯は男湯ほど熱くなかったらしく、男湯が熱すぎて入れないため女湯のほうに入ろうとした男が、三助と殴りあいになったという新聞記事がある。1881(明治14)年頃はまだ、場末の浴場では混浴の禁制がルーズだった(読売新聞 1881/8/9: 2) 江戸時代も、また東京になっても、よほど大人数の商家でもなければ、内風呂をもっている家はごく少なかった。芸者のあがるような料亭にはかならず内風呂があり、座敷に通る前にひと風呂浴びることが多い。この習慣は第二次大戦の近い時代ほど決まりごとのようになっているようだ。客のふところを確かめるため、という穿った見方もある。ふところというのはかならずしも財布の重みばかりではない。下着になにを重ねているかで、その客の金の遣いっぷりのおおよその見当はつく。1881年の新聞では、浅草の料理屋では客と芸者、あるいはその家の女中を、いっしょに風呂に入らせているので、近日取締まりがあると報じられている。 明治から昭和戦前までの内風呂は据風呂といい、たいていは大きな小判型の木の桶を据え、横に釜をとりつけて火を焚いた。薪を焚く風呂では釜の部分に煙突がついているので、鉄砲風呂ともいうらしいが、あまりひろがっていた言いかたではない。都会では戦争までにガス釜に換わっていた家が多い。ガス釜のいちばんいい点は、風呂に入っている人が温度を調節できることだ。薪の場合は焚き口がたいていは風呂場の外になっていて、薪をくべながら窓ごしに湯加減をきく。そのためもあってたいていはガラス窓があり、風呂に浸かりながら柿の木の枝ぶりや、夕暮れの空の一番星を眺めたりする。お客に行ってお風呂に入ると、湯加減をきいた女中さんが、お背中を流しましょう、と入ってきたりする。 風呂場から柿の木が眺められるということは、内風呂をもつ家は郊外の住宅が多かったから。新興の郊外住宅地ははじめのうち家数もそう多くなかったので、銭湯も少なく、あってもバスに乗っていかなければならないようなこともある。銭湯が遠いために近所の3、4軒の家が共同出資である家に自家据風呂をつくる、ということもあったらしい。ときには、湯銭が値上がりになったための対抗手段でもあった。しかし火災予防や衛生面で問題があるというので警視庁で調査中、という記事がある(→年表〈事件〉1900年2月 「自家据風呂の取締」報知新聞 1900/2/11: 3)。 内風呂は身体を洗うのにも風呂桶のお湯を使うわけで、べつに上がり湯というものもないのがふつうだった。水道がまだひけていなかった時代はとくに、お湯の量をけちったはずだから、ずいぶん汚れたお湯を身体にかけて出なければならなかった。家族だけならいいとしても、みんなの入ったあとに入る女中さんなど使用人にとっては、銭湯のほうがずっと清潔だったかもしれない。 内風呂の利点のひとつは、薬湯が好きなように利用できることだ。第二次大戦前は、入浴剤はふつう浴剤と言っていた。この浴剤のひとつ「中将湯」で発展したのは東京日本橋の津村順天堂だ。1930年代(昭和戦前期)には街の銭湯でも、押せばお湯の出るカランや、シャワーなどといっしょに、薬湯のやや小さなバスタブを設けることが一般化したが、不特定多数のお客相手では、あまり変わった匂いや効果のあるものを使うわけにはいかない。内風呂であれば、特定の薬効をもつ高価な浴剤は、足腰の弱った老人だけが、また冷え性の主婦だけが、残り湯や、大盥(たらい)に溶かして腰湯として使うということもできる。 内風呂のない人の夏の工夫は行水だ。大盥を人目を避けた庭の隅などにすえ、お釜で湧かした熱湯を注いで水でうめる。そんな小さな庭でも下町にはなかなか得られないから、路地の奥の破れ塀のうしろとか、便所の汲み取り口のそばのもの陰とか、かなり危険な場所で強行されることもある。盥のお湯では座った子どもでもお臍(へそ)までしかない。上がるときはもちろん新しい湯で掛湯をするのだが、身体を拭いた方が清潔だったかもしれない。それでも庶民はこの快楽に執着した。 内風呂でなくても、それが行水であっても、さっぱり汗を流したあと糊のきいた木綿の浴衣に着替えて、小さな庭先の縁側で虫の音をきく。それを端居(はしい)といった。いや多くの日本の父親は、裸の胸や背中を出したまま、大あぐらをかいていたかもしれない。 (大丸 弘) |