近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 113
タイトル 皮膚害虫
解説

過去にも、ひとに危害を加える動物は、日本の大部分の地域には生息していなかった。蚤(のみ)や虱(しらみ)、蚊くらいの小虫に苦しめられていた日本人は幸せだ。

「蚤虱 馬の尿する 枕もと」という松尾芭蕉の句を例にするまでもなく、江戸時代の紀行文や膝栗毛のたぐいを読むと、着替えの1、2枚を振分にして旅するような連中の泊まる宿では、どこでも蚤には苦しめられたらしい。

拡大鏡で見ると、蚤はいかにも跳躍力のありそうな長い脚をもち、スマートな恰好をしている。西洋には蚤のサーカスもあり、シャリアピンの歌う蚤の唄もあって、憎まれ者ながらどこか陽性だ。昭和一桁かそれ以前生まれのひとには、戦時中ひどく蚤がふえた記憶があるだろう。多くのひとは、戦災前後の疎開暮らし当時に、はじめて蚤にお目にかかっている。しかし明治・大正・昭和を通じて、「暮らしの智恵」といった婦人雑誌の付録などには、よく蚤避けの工夫などが出ていたものだ。戦前のいちばんよい時代の新聞の家庭欄にさえ、「蚤の対策――蚤が出て仕方がない、どうにかならないものだろうかという方は、もうすでに遅いといわれても仕方がありません、発生時に防止策を講じておかないで、今頃騒いでみてももう詮方ありません(……)」などという冷たい記事がみえる(→年表〈現況〉1935年6月 「蚤の対策」都新聞 1935/6/28: 11)。

虱は蚤にくらべると、なにかにつけて陰性だ。蚤とちがって、虱はひとのからだに住みつく。ふつうの虱は衣服に、ケジラミは頭の毛のなかに。正確には頭髪のなかの虱はアタマジラミ、陰毛のなかにいるのがケジラミ、というらしいが。虱は衣服のたいていは縫目にいる。身体を這っている、などということはない。著述家の徳川夢声はこれをふしぎがって、あれでどうやって血を吸うのだろう、首を上にねじ曲げるのかしらん?などと随筆に書いていた。衣服のなかに住んでいるのだから、衣服を熱湯処理すれば全滅する。しかしそんなことをしなくても、洗濯を頻繁にすればいなくなる。戦中戦後に学童の集団疎開で虱が大発生したのは有名だが、入浴しても下着を取り替えないことが多かった。その、子どもが脱ぎ捨てた下着の虱を、女の先生が丹念につかまえていたもの。

だから戦争前から、虱は貧乏と結びついていた。虱は貧乏人に、蚤は金持ちにつく、などと言った。蚤がかならず金持ちにつくわけはないが、人混みでは肩から肩へ飛ぶくらいは蚤の跳躍力なら容易だから、たまに蚤が見つかったからといって、それほど恥じいることはない。それに対して三船敏郎演じる椿三十郎が、いつもからだをもそもそしているように、めったに洗濯などしたことのない素浪人のきものは、虱と、虱の卵の巣だったろう。

頭髪の毛虱は、貧しい家の女の子のしるしのようなものだったらしい。1922(大正11)年に、東京市学務課では3人の学校衛生婦という職員を任命し、私立の特殊小学校11校を巡回させることにした。トラホーム、皮膚病、痔ろうの罹患者が多かったが、女の子の8割までが毛虱をもっていた(→年表〈現況〉1922年12月 「児童罹患の現状」都新聞 1922/12/4: 4)。4年のちの一般小学校の調査では、やはり女児の毛虱が非常に多く、3、4年生の場合、1,000人中203人に達したとのこと(→年表〈現況〉1926年6月 「児童のトラホーム罹患率」東京日日新聞 1926/6/7: 5)。

なお、東京市郊外の、労働者居住地域から通学する児童の多いある小学校では、300円の費用をかけて洗濯場を新設、通学児童の、めったに洗わない汗臭いきものを洗濯してやることになった。乾くまで着せておくための古着も各方面から集めた。これまでも女教師は月1回、児童のきものの虱取りを受け持ってきたと(→年表〈現況〉1926年6月 「生徒の着物を洗濯する小学校」読売新聞 1926/6/24: 7)。

1930(昭和5)年になってからも、東京深川のある小学校で、女生徒の中に髪の毛が汚れて臭く、毛虱のいる子が多いので、担任の先生がその不衛生さを説いて、断髪にするよう父兄をを説得した。たまたま断髪のモガ華やかな時期、江戸っ児の本場という土地柄でハイカラ嫌いの親が多かったが、結局4年女子60名中40名は、数日中にオカッパになったという(→年表〈現況〉1930年6月 「毛ジラミと断髪」朝日新聞 1930/6/12: 夕2)。

南京虫はその名のとおり舶来の害虫といわれる。状況的には横浜の中国人街がその中継地である可能性が高い。1879(明治12)年の初夏、[東京日日新聞]に「横浜市内ではまた例の南京虫が発生し(……)」と報じられているのが古い例で、この時点ですでに南京虫という名がかたまっていたことがわかる(→年表〈現況〉1879年5月 「南京虫」東京日日新聞 1879/5/20: 2)。南京虫は咬まれたときのその痛がゆさが蚤、虱の比ではなく、また駆除も困難だった。中国人街に近い横浜警察署と居留地警察署は、「近来南京虫が夥しく生じ、撲滅不能の状態になっていたが、幸いこの度新築の署に移転することになった」(→年表〈現況〉1884年7月 「南京虫の大量発生」時事新報 1884/7/19: 2)とある。南京虫が警察署を攻め滅ぼしたとはおどろく。

翌々年には東京にも発生し、特定の地域にではあるが短期間にひろがっている。下層生活者の生態レポート『貧天地饑寒窟探検記(ひんてんちきかんくつたんけんき)』にはつぎのようにある。

蚤虱にはべつに異臭なきも南京虫にいたりてはその臭きこというべからず、ここをも てこれを知るという。(……)ひとたびこれに刺さるれば日を重ねて癒えず、それこれに中毒(まく)る者は一種の瘡(かさ)となりて膿を発し数十日を経ざれば治せず。この虫家に生ずればその家を焼かざれば消滅せずという(……)。
(大我居士(桜田文吾)『貧天地饑寒窟探検記』1893)

1908(明治41)年の東京の市ヶ谷監獄からの報告によれば、本年は監房内における南京虫の発生は頗る激烈で、刑事被告人にとっては鎖に繋がれて働く以上の苦痛となっている。ある在監人は「昔は随分残酷な拷問をやったそうですが、南京虫攻めはむしろそれ以上の苦痛で、毎晩此奴に襲撃されては大抵の強情者も白状してしまうでしょう」と(→年表〈現況〉1908年7月 「南京虫の拷問」読売新聞 1908/7/11: 3)。

イエダニとよばれる蜘蛛科の皮膚害虫は南京虫よりももっとあたらしく、1926(大正15)年頃に確認されている。前3種にくらべても特別小さく、肉眼で見たことのある人は少ないかもしれない。それだけに皮膚のごく柔らかい部分を狙って刺す。陰部などが多いから、エロダニなどと嫌がられた。拡がったのが丁度エログロナンセンスの時代だった。ほかの皮膚害虫同様、戦時中に多くなった。掻くと疥癬状になるので疥癬ダニともいうらしい(→年表〈現況〉1944年1月 「疥癬の流行」朝日新聞 1944/1/27: 2)。ダニだけは皮膚害虫のなかで唯一、現在も健在。

(大丸 弘)