近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 112
タイトル 障害のある人
解説

精神を含めたからだの障害の問題は、社会がそれをどうとらえるか、という点から出発する。どんな社会であっても、障害に対する驚きやおそれにつづいて、憐れみの感情はある。障害そのものをとり除くための工夫や援助と、障害をもつ人の生活支援とは別々の道筋で発展したが、ときにはいっしょになることもあった。

明治新政府も発足まもない1874(明治7)年に、太政官より〈恤救(じゅっきゅう)規則〉を公布した(→年表〈事件〉1874年12月 「恤救規則公布」郵便報知新聞 1874/12/13: 1)。その対象を極貧、重病、老衰とならんで廃疾とし、ひとり暮らしで、この中のふたつ以上を併せもつ者、としている。条文中で独身者ということばがくり返されているのは、この時代、どんな理由であろうと生活困難者は、家族が面倒をみるべきもの、という原則があったためだ。そのため行政の福祉政策は、貧困家族のほかは、もっぱら身寄りのない孤児にむけられていた。

一方で政府は、先進諸国における福祉関係の諸施策にも眼をふさいでいるわけにはいかなかった。すでに福沢諭吉は『西洋事情』(1866)の中でヨーロッパにおける障害者施設を紹介している。1880(明治13)年前後からその時代の言いかたでの盲、聾、唖児童に対する教育がはじまる。ともあれこれにつづく「劣等児・成績不良児童」にせよ、施策のすべては児童教育に関するものだった。

第二次大戦以前の障害者への生活支援は、方面(民生)委員らの眼のとどく範囲での、もっぱら生活困窮者一般の救済のなかでおこなわれた。その方面委員も法制度化されたのは1936(昭和11)年のこと(→年表〈事件〉1936年11月 「方面委員令公布」【勅令】第20号 1936/11/14)。障害者、あるいは障害そのものへの行政の態度は、戦後にくらべるときわめて冷たかった。もっともそれは国民全体の態度がそうだったから、と言えなくはない。

かたわな子ができたのは親の責任だと、あるいは母親になにかの落ち度でもあったかのように思われる。よい子を産んでお手柄だったとほめられることの裏返しの冷たい眼が、周囲にあったかもしれない。それにはいくぶんは仏教の、因果応報の考えかたの影響があるだろう。貧しい人も身体の不自由な人も、むかしはコミュニティ全体で温かく見守ってやったものだ、などという人もあるが、それは現実を知らないもはなはだしい。

明治初年、高名な法学者の加藤弘之は、大日本婦人衛生会の発会式でおこなった講演でつぎのように言っている。

西洋には不具、病持ちの数が日本より多いときく。これは奇怪なる如くなれど、すこし考えれば不思議はない。西洋は医術衛生が進歩しているために不具病持ちの人も死なせることがないが、日本ではそうした人の多くを死に至らしめる。
(→年表〈現況〉1887年11月 「日本と西洋の障害者」郵便報知新聞 1887/11/25: 2)

これはひとつの事実だろう。ふつうでない肉体や精神をもつ人が身辺にそれほど多くなかったために、そういう人を疎外する感情は逆につよかったのではないだろうか。

そのひとつのあらわれとも考えるのだが、弱い立場のひと、ハンディのある人を指していう戦前までの言いかたの無神経さに、今日の私たちはおどろく。それが犯罪がらみの場合であればなおさらだった。

1911(明治44)年秋に、東京巣鴨の精神病院の、快方にむかっている女性患者21名が、医師看護婦付添で近所の飛鳥山へ遠足をした。これを報じた[日本新聞]は、「女狂人遠足会」という見出しをつけた。1912(明治45)年春、東京・四谷の往来で通行の婦女に怪しい所業をしようとした男が逮捕された。それを報じた[都新聞]の見出しには〈白痴(ばか)で色情狂(いろきちがい)〉とある。1917(大正6)年8月、孤児や貧困家庭の児童を収容している育児院の夏季旅行に、[朝日新聞]は〈貧児の避暑旅行〉という見出しをつけた。1932(昭和7)年に肢体障害者の多く出るアメリカ映画《フリークス(Freaks)》が輸入され封切られた。わが国でのタイトルは《フリークス怪物団》だった。同年12月の[報知新聞]はこの映画に関連して、「映画〈怪物団〉ではないが東京では三百人に一人の不具児」としてつぎのように書いている。

手手なし足なし(……)、いも虫のような身体の男等々、まるで怪物のようなグロテスクな形相の数々に顔を背ける思いをされた人が少なくないと思います。だがあれにも劣らず畸形不具者が我が日本にはざらにあるのだからたまりません。文明国としてじつに不名誉な話です。
(報知新聞 1932/12/5)

そんななかで、金馬の落語「金明竹」に出てくるような、畳に打ち水をするようなことはあっても、商品の出し入れくらいならなんとか役にたつ店員、農作業のなかの一番単純な労働や、陶芸家の土こねを任せられているとか、ときに困らされることはあっても、その表裏のない人柄によって、自分の居場所をもっていた障害者のすがたがうかぶ。

『近代職業読本』(1935)の著者はそのなかで「身体部位から見た職業適否表」を示している。たとえば眼についてはつぎのような提案をして、ハンディのあるひとでも、“やればできる”努力値をかなり大きく見込んでいる。

身体能力極度に必要極度に不必要必要なれども必ずしも勝れたるを要せず
視力写真師あんま職新聞売子
弁色検査師調律師運搬人
光覚測量技師音曲師小使
記憶美術家モデル火夫

このような提案や、また関係する人々の努力があったとしても、地域が障害者をつねに受けいれてきた、あるいはそういう姿勢だけでももっていた、とは考えにくい。障害者施設や医療施設建設への住民の反対は現代だけのことではもちろんなかった。1918(大正7)年には東京府下に市が建設した結核療養所に、村民が放火するという事件も起こっている。

(大丸 弘)