| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 111 |
| タイトル | 病気/医療 |
| 解説 | 四百四病といわれた病いの中で、近代100年の前半期に、身装にかかわりのふかい病気といえば、疱瘡、梅毒(かさ)、肺結核の3つだったかもしれない。とりわけ梅毒と肺結核とは、人々を苦しめた。 明治維新は病気という点から言えば、コレラで明けた、と言えるほど、幕末から約30年ほどのあいだのコレラの反復的流行はすさまじかった。海外からのその種の病原菌に免疫をもたなかった日本人は、ひきつづき赤痢、チブス、ペストなどの侵入にもおびやかされた。ヨーロッパの中世から17世紀あたりまでのあのペストの恐ろしさを歴史知識として知っているわれわれは、鼠の買い上げや、はだしの禁止程度の施策でよく済んだものと、不思議にさえ思うが。 疱瘡についてはすでに幕末に、一部では牛痘を用いた種痘が試みられている。その時期に日本を訪問した軍医ポンペによると、日本人の3人に1人は顔にあばたがあった、という。行政の努力による種痘がゆきわたったのは開化以後のことだから、明治初年に生まれた人たちのなかには、20世紀に入ってからもあばたの残った顔が見られている。1874(明治7)年の布達〈種痘規則〉では、一般の医師の外にとくに専門の種痘医というものをもうけ、「当分ハ此一術ニ習熟セルモノヲ検シ免許状与ヘ」るというような応急措置までして、種痘の徹底をはかった。そのおかげでアジア諸国のなかでも、我が国はとくに早い時期に疱瘡はほぼ根絶された。人類の最後の天然痘患者は、1977(昭和52)年に発病した23歳のソマリア人とされる。 性病の概念にふくまれる病気の範囲はひろく、近年はC型、B型肝炎やエイズなどに関心が集まっているが、近代前期では梅毒が代表的。江戸時代には多くの男が、結婚前に廓(くるわ)で“洗礼”をうけることを当然のように思っていたことから、うぬぼれと瘡っけのない人間はいない、といわれるくらい、性病は蔓延していたと考えられている。開化後も、廓や芸者は性病のおもな感染源だった。 行政は公娼制度の維持の理由を、性病の拡大を防ぎ、壮丁男子の健康を保持して、国家の富強を危うくしないためとした。そのため廃娼運動には批判的で、一方、早い時期から公認の遊廓の娼婦たちに定期的な検黴(けんばい)をおこなった。しかし検黴の対象になる公娼は、実際に売春行為をしているもののごく一部にすぎなかった。1910(明治43)年に梅毒の特効薬であるサルバルサン606号が開発され話題になったが、ヒ素製剤であるため毒性も強く、ペニシリンが開発された現在では使用されていない。 花魁道中がなくなったあとも、月1回の検黴日には花魁は着飾って、吉原であると廓内の北詰めにあった吉原病院まで“道中”する。それを見物しにゆく閑人も多かった。お女郎のでてくる小説には、今日は検査の日だからと、約束を断る場面もみられる。1881(明治14)年からは、梅毒は口中からも伝染するというので、検査に咽喉も含めるということになった。これに対し府内5カ所の貸座敷中、なぜか吉原だけは女郎たちがいやがって、ご猶予を願い出ている(読売新聞 1881/7/3)。男女の接触中、口と口の接触は呂の字といった。だいたい娼婦は呂の字はなかなかさせないものだという。 結核は、第二次大戦前には国民病とまでいわれていた。1912(大正元)年の統計年鑑〈現住人口死亡原因別表〉によると、死亡原因のうち、肺結核は1万人につき15.7パーセントで、下痢および腸炎の19.4パーセントにつづき第2位だ(→年表〈現況〉1912年12月 「結核は殖えるばかり」東京日日新聞 1912/12/20: 6)。この時代の病名は現代とはかなり観点がちがうから、下痢および腸炎というのは、今ならもっとべつの病名に区分されるだろう。また正岡子規が結核性カリエスで死んだように、結核性疾患は肺にかぎらないので、結核菌による死亡の比率はもっとあがるはずだ。 結核は不治の病と考えられ、また伝染力がつよく嫌われた病気だった。家族にひとり肺病で寝ているものがいると聞くと、なんだかその家自体が不気味で、気やすく訪問するのがはばかられた。○○ちゃんのうちに遊びに行くと母親が機嫌を悪くする、といったこともあった。その一方で“肺病美人”というのもあった。太ればよくなったと考えられたくらい、結核患者は痩せているのがふつうで、家に籠っているため色白で、微熱があるために頬や眼の周りに紅みがある。若い娘の場合などはとりわけ、命がもう永くないということもあって、儚(はかな)げで、ロマンティックな存在に感じられた。それは『不如帰』(1899)のヒロイン浪子の影響もあったかもしれない。またサナトリウムのイメージとも結びついているかもしれない。 スイス・ダヴォスの高原療養所を舞台にした、トーマス・マンの『魔の山』が紹介されたのは1930年代だが、これはややハイブロウ過ぎるとしても、正木不如丘(まさきふじょきゅう)による信州八ヶ岳山麓の富士見高原療養所、そこで病を養った堀辰雄、藤沢恒夫、竹久夢二、といった人々の名前を知っている人は多かったろう。 医療はいつも貧困とうらはらの関係にある。その日ぐらしの人々に医者代や薬代をはらう余裕はない。黒澤明の映画《赤ひげ》で知られる小石川療養所のように、施療は江戸時代にもあったが、福祉としてではなく、一般国民にもっと安心して医療を受けさせようとする方策が、1911(明治44)年9月に発足した実費診療と、1922(大正11)年4月に成立した健康保険法だ。 社団法人の実費診療所は全国に十数カ所設けられ、慈善を受けるをいさぎよしとしない、中産階級の下、の人々を対象とした。一方、1927(昭和2)年給付を開始した健康保険は、生産力維持のために労働者の健康を守る、という目的から、いまとちがって給付対象は労働者本人だけで、家族には及んでいない。 (大丸 弘) |