| テーマ | 身体 |
|---|---|
| No. | 109 |
| タイトル | 清潔/衛生/健康 |
| 解説 | 健康、医療に関することばは、西洋医学伝来以前には、その概念自体がなかったものも多く、当時の人にとっては耳新しかったろう。衛生、消毒、健康、栄(営)養、滋養、といったことばの中には、中国の古いことばをそのまま使っているもの、意味をいくぶん変えて用いているもの、新しくつくられたことばと、さまざまだ。 日本の近代はコレラによって明けた、と言えそうなくらい、幕末から1880年代(明治20年代)にかけての、コレラの波状的な流行はすさまじかった。ただそのおかげで人々は、伝染だの、バチルス(bazillus(黴菌-独))だの、予防だの、避病院だのという、近代生活にとって必要な知識も身につけることができた。もっともそういう人の中に、避病院へ入れられれば殺されると怖れる人や、おまじないや祈祷にすがることをやめようとしない人も少なくはなかったが。1880、1890年代は、民間ではまだ、民間薬と並んで漢方療法がかなりの勢力をもっていた。ただ漢方には、防疫や消毒のための、はっきりした方策がなかった。そのことと、日常の健康管理についての、人体生理の上からの論理的な説明ができなかったため、教育の場や、また家庭からも次第に疎んじられた。1900(明治33)年を過ぎるころには、健康維持や日常の衛生に関して、家庭管理や主婦の百科といった通俗実用書に書かれている内容は、基本的にはすでに現代の常識と違うところはない。 家庭での、また個人として心がけるべき、新しい徳目のひとつが衛生的であること、つまり清潔だった。もっともことがらとしては、日本人が知らなかったわけではない。アメリカの新聞で日本婦人が「米国人の見所から云えば美人なりとはいうべからざれども、其の常に頭髪を大切にして、身体の清潔を貴ぶは、米国人の及ばざる処なり」と紹介されたという(→年表〈現況〉1886年3月 「日本婦人の清潔」時事新報 1886/3/23: 2)。とりわけアメリカ人は、日本人よりもう少し前から接触してきた中国人と比較するため、日本人を清潔な国民と見る傾向があった。中国は日本のように水に恵まれた土地は少ないから、水をふんだんに使える、そして風呂好きな日本とはちがう文化をもっている。しかしその中国人は日本人をさして、便所と同居する民族といい、またアメリカ人は、日本人が入浴することには熱心だが、着ているもの、とりわけ下着の洗濯をめったにしないため、異臭のする人が多い、と言っている。 明治時代は細菌をバチルスと言った。バチルスの怖れ、という警戒心でみると、それまでなんとも思わなかった習慣に、たくさんの危険のあることがわかってきた。ひとつの風雅のようにさえみられた厠の外の手水鉢(ちょうずばち)、酒の席での献酬、湯屋の貸し手拭い、シーツも襟掛けもなかった夜具、気にしだすとあれもこれもとなって、女学校でそういう勉強をしてくる娘と、母親や年寄りとのあいだに衝突がおこる。擦り傷には袂糞(たもとくそ=袂の底に溜まるゴミ)をつけると早く血が止まる、と信じている年寄りもいた。 1885(明治18)年9月のコレラ流行期に、内務省は流行地域から他の地域への、古着およびボロの輸送を禁止した。これは当然の処置だったが、人々の古着に対する警戒心が、このあたりから生まれてきた。それまで、大衆の手近な衣料といえば第一に古着だった。東京市内には江戸時代以来のものも含めて、何カ所もの古着市があった。それが1920年代(大正末~昭和初め)あたりを境にして、だんだんと既製服街に変貌してゆく。大衆が古着からはなれた理由のひとつは、だれが着たかわからないものへの不安だった。その時代の人にとって、とりわけ結核のバチルスは大きな恐怖だった。その後しばらくして、古着はすべて消毒が義務づけられる(→年表〈事件〉1922年8月 「大審院の新判例」東京日日新聞 1922/8/8: 9)。 営業としてもっとも衛生法規のやかましかったのは、飲食店以上に、公衆浴場、理髪業、結髪業だった。戦前は保健所というものがなかったためもあり、これらの業種の監督官庁は警察署だった。そのため女の職業だった結髪業者、つまり髪結さんなどはずいぶんびくびくして商売していたが、その髪結さんや、小僧あがりの床屋さんの、最初のうちの不衛生さは相当のものだったらしい(→年表〈現況〉1916年2月 「女髪結はまだ非衛生的」中国新聞 1916/2/19: 4)。 衛生問題は都市インフラの段階に関係して変化する。水道敷設以前は井戸の水質保全が大きな課題だった。井戸はたいていは共同使用だったので、不注意や、なかには無神経から水を汚す住民がいる。井戸の周りの木枠、つまり井戸側に、洗いかけの洗濯物をうっかりのせて、それが井戸の中に落ちることがままあった。そうなると近所総出の井戸替え、という大ごとになった。 井戸や共同水栓がなくなり、下水もすべて暗渠になった戦後、そして多くの家庭が小さいながら浴室をもてるようになった1960年代以後、衛生のほとんどは個々の家庭内の、そして個人の問題になった。 衛生と健康は当然のこととして医学の進歩、いくぶんかは学説の変化にも関係する。もっともはっきりしている変化のひとつは、紫外線への対応だ。戦前は紫外線をいっぱい浴びて健康になろう、という考えが主流だった。肥満についても喫煙についても、戦前ははるかに寛大だった。太っていてお達者そう、と見られたのは、その時代、痩せた結核患者が多かった対比もあるだろう。おんぶは幼児の発育にわるい影響を残す、という医家と、そんなことはない、という医家がいた。女性が下穿きをはく習慣をつけると、風邪をひきやすくなるといって反対する医者もいた。 (大丸 弘) |