近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 108
タイトル 座り方
解説

膝頭を揃え、足の甲を床につける正座、あるいは端座という座り方は、日本以外の国ではイスラム圏で見られる。イスラム教の信者は礼拝のさい、膝頭を揃えて床につけているが、足の甲は床につけず、指で支えていることもあるようだ。彼らが男女ともこの座り方をするのは、日に6回のメッカに向かっての礼拝のときだけだから、膝を揃えるという行為には、謹みの気持ちがあるものと考えられる。

脚をひらいているよりも、膝を寄せる方が謹みの気持ちであるのは、座るときだけではない。「気をつけ!」と「休め!」の違いだ。この気をつけの姿勢でそのまま床に座れば、正座のかたちになる。足の指を立てる立てないはべつとして。

正座とはちがうが、神社や仏寺での拝礼も、膝を揃えて地に突いてするのがふつうだった。お墓参りに、墓石の前に人が蹲って手をあわせている新聞小説挿絵は、だいたい1900(明治33)年以前のものと見てよい。

座り方を考えるとき注意する必要があるのは、楽さ、という点については、慣れとか訓練とかが非常に大きいということだ。あぐらは安座だから楽、と考えるのは現代人で、正座に慣れた時代の人たちは、あぐらでは上半身がぐらぐらして腰が疲れるという。だいいち、躾のよいひとはあぐらをかけなかったものだ。むりにあぐらをかくと後ろに倒れてしまったり、腿の筋肉がこむらがえりを起こしたりする。

立ち上がるのも、あぐらからよりも正座からのほうがスムーズで、剣法の居合いでは、正座からサッと片膝を立てると同時に刀を抜く。あぐらではそうはいかない。

膝を揃えて座っていた女性が立ち上がるとき、また、座るときの、滑らかな腰の動きと裾さばきは美しいものだった。もっとも料理屋の女中さんなどは、立ち居が激しく、しかもたいていは畳に突き膝をするため、着物の膝がすぐ抜けた。

武士たちが長時間の正座の習慣を身につけたのは、子どものときからの、読書や手習いの稽古とも関係あるだろう。懸筆で字を書くためには、あぐらでは机との距離が空きすぎ、またからだが不安定になる。なにかの理由で正座ができないときは、むしろ机の下に足をなげだして字を書いた。文字どおり端然とした武士の正座すがたは、教養人のイメージとしても、明治大正に受け継がれていったものと思われる。明治生まれの、屋敷風の躾を受けた人びとは、楽々と長時間の正座をしている。筋肉そのものが、正座むきに鍛えられているのとあわせて、膝や足の位置をいろいろに変える――足と足の間に尻を落とす割座にしたり、といった工夫も身についていた。

その一方で、小学校から立ち机で教育を受け、ビジネスの場でも公共の場でも一日中、立式の環境ですごす人がふえてきた。日本の中流住宅への洋家具導入の先頭をきったのは、子どもの勉強机だったのではないだろうか。朝夕の食事にだけ、ちゃぶ台の前で膝を折らなければならない子どもたちは、横座りという妥協策をとって、お行儀が悪いと叱られる。しかし横座りができるのは、からだの柔らかい子どもと女性だけなのだ。昭和戦前から戦後にかけて、先生のお宅におじゃましたものの、床を背にして端座する老先生と、膝の苦痛のため先生のことばも耳に入らない若者、という図がどこにでもあった。正座の苦痛を救うための工夫もあり、板垣退助は座布団を二つ折りにして尻の下に敷く安座法を発明、自由党の会合で宣伝している(→年表〈現況〉1899年11月 「板垣退助伯による、座り方の案」国民新聞 1899/11/30: 1)。この種の道具の利用は現在まで続いている。

正座の害については、何人かの医師の警告があった。正座は猫背の原因という主張もあった。食卓を囲んで、お父さんはあぐら、お母さんは正座、娘と子どもはいくら注意しても横座り、という乱脈の解決は椅子にするよりしかたがない。

日本住宅への洋家具の入りかたに、はっきりした段階を見出すことはできない。背景のひとつには、女性の洋装の増加も考えられる。スカートは正座するには窮屈だったし、1920年代(大正末~昭和初め)以降は丈が短くなって、向かい合う相手の鼻先に膝小僧が突きだされた。

時代は下がるが、洋装で畳の部屋を訪問する心得ということで、こんなQ&Aがある。

〈問〉洋服で訪問して、日本のお座敷に通された時、とても困るのですが、膝を崩して坐ったりしてはいけないでしょうか。
〈答〉構わないと思います。きちんと固くなって坐ったりしては却って可笑しいと思いますが、しかし、その膝の崩し方に、やはり心得があってほしいと思います。だらしなく横坐りに足を投げ出すことなぞ無論禁物。やさしく、少し腰を落とすような形で工夫してみてください。
(→年表〈現況〉1939年5月 宇野千代「スタイル教室」【スタイル】1939/5月)

じつは洋服と和座敷については、はるか以前に、ズボンで正座することの不都合さが紳士たちを悩ませていた。ただし関東大震災までの男性は、家に帰ればほとんどが和服に着替えたので、これは主として人の家を訪れたおりの問題だった。来客にむかってどうか膝をお崩しください、と勧めるのが主人側の心得だった。まず応接間が洋家具になったのも、この辺の配慮があったためだろう。ただし椅子と洋風テーブルの部屋をどこの家庭でももつようになったのは、第二次大戦後のことだ。

その関東大震災は居住スタイルを変える絶好の機会だった。復興とともに、椅子化の先鞭を切ったのは飲食店だったようだ。震災の年の暮れ、[都新聞]には「椅子万能時代の新銀座の装い」という見出しで、「定食屋、鳥料理、天ぷら、牛鍋屋、どこを向いても腰掛になった」と報じている(都新聞 1923/12/17: 7)。

居住スタイルの変化に対する抗議がなかったわけではない。作家の青柳有美は「座居は良風俗」と題してつぎのように述べた。椅子に腰をかけるすがたは、男女の風俗を壊乱する媒介になる、なぜなら、畳に座っているのとちがって動きやすく、脚を出すとか手をさしのべるとかいうことが自由なため、不作法に流れがちで、自然、男女間の礼儀を乱し、善良の風俗を害するようになる、と。とりわけ彼はソファに注目し、若い男女が膝を折らずに腰をかけ、相並んで倚居することの危険を警告している。「男女七歳にしてソーファを同うせず」と。1920年代以降の新聞小説挿絵をみるかぎり、大きな安楽椅子やソファにもたれての女性たちの演技は、まさに青柳の予見を実現した。

(大丸 弘)