テーマ | 身体 |
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No. | 106 |
タイトル | 社交ダンス―市民たちの時代 |
解説 | 1910年代(ほぼ大正前期)に入ってからの社交ダンスの流行には波があったが、関東大震災(1923)以後は、よかれあしかれ、一般市民たちのあいだに定着したと言っていい段階に入っていた。 わが国の欧米風社交ダンスはもともと上流階級のものだった。したがって夏の軽井沢や、上高地、逗子や葉山などの避暑地の高級ホテルで、華族さんの息子や令嬢などを中心に踊られていた。わが国でも華族を中心にした社交界といえるような交際社会はあったし、とくに外交儀礼的な夜会には、訓練された踊り手のいることがのぞましかったから、海外生活の長い元外交官夫人などがたのまれて、いわゆるデビュッタント(debutante)以前の娘さんに個人的なレッスンをすることはあった。しかし欧米のような、公式の儀礼プロトコール(protocole)から化粧、優雅な身のこなし、衣裳、魅力的な会話の方法までを専門に教えるようなコースはなく、それに近い教育は、女子学習院がになっていた、と考えていいだろう。 偶然的なことだったが、第一次大戦中から戦後にかけて、革命を遁れて一時的にもせよ、わが国に安住の場所を求めてきた相当な数のロシア人がいた。1914、1915(大正3、4)年に、横浜市郊外の花月園に、花月園ダンスホールが開業する(→年表〈事件〉1920年3月 「社交舞踏場花月園ダンスホールがオープン」『社交ダンスと日本人』1920/3月)。この教師のなかにも数人のロシア人バレリーナ、たとえばエリノワ・パブロバなどがいたし、横浜市内や湘南地区で、小さなレッスン場をひらく人もあった。すこし時代はあとになるが、谷崎純一郎の小説『蓼食う虫』(1929)のなかには、圧倒的な肉体をもつ西洋人女性の、つよい香水の香りにも幻惑されてステップの手ほどきを受ける、貧弱な日本の男のイメージが描かれている。ロシア人の先生は一般にきびしい教え方だったようだ。1920年代に(大正末~昭和初め)入ってアメリカから新しいステップが入ってきても、ロシア人の先生はそれを嫌うひとが多かった。関東大震災後には、たいていのロシア人は焼け野が原の横浜東京に見切りをつけて去ってしまい、のこされたロシア人は、アメリカに行く船賃もない、羅紗売りの老人だけになる。 大戦後(1920年代~)のダンスホールは、アメリカ生まれのチャールストンやフォックス・トロット、タップ・ダンスを教えるところが繁盛した。それまでの優雅なワルツのステップとはさまがわりの、ジャズのテンポにのったスピーディなダンスが、世間にあたえるダンスの印象をよくしたとは考えられない。 欧米では父親が幼い娘に、基本的なステップを教てやる、というケースが多いらしい。 アンドレ・クラヴォーの《パパと踊ろうよ》も、その可愛らしい情景を想像させてくれる。そしてその娘がやがて、不器用なボーイフレンドにステップの手ほどきをする、という順番になる。 わが国の場合、異性のからだにふれるどころか、かつては近づくことさえ避ける風習があった。親しい間柄でも、抱きあうという習慣はない。握手さえしばしば誤解のもととなった(→年表〈現況〉1902年9月 「握手の咎め」朝日新聞 1902/9/12: 5;→年表〈現況〉1910年10月 「日米握手事件」朝日新聞 1910/10/4: 5)。それは肉親のあいだでも同様だ。このような文化が、ダンスをすんなりと受けいれるうえでの、ひとつの障害になっていたはずだ。1920、1930年代、帝国ホテルの孔雀の間などでくりひろげられている日本人のダンスをいま写真で見ると、とりわけ男性のぎこちなさが目につく。女性のからだを抱くということを、俺は好きでやっているわけではないのだと言い訳しながらの、まるで受難の行為のようにさえ見える。ただし、避暑地での若い男女のダンスは、それとはちがっていたろう。 この時期にダンスが浸透したのは、とりわけ東京の学生たちのあいだといわれる。金のない学生は赤化し、金回りのいい学生は父親の車を乗りまわし、横浜のホテル・ニューグランドや箱根まで足を伸ばしてダンスをする。 1926(大正15)年の第51議会に、ダンスを禁止せよという議案が提出された。それに対し、ダンスを禁止すれば、金回りのいい学生までも危険思想に走らせはしないか、という異論があった。根本は若者の現状不満だ、というのだ。 アメリカのダンスだけを禁止せよ、という意見もあった。これは同時代のモボ、モガ、膝小僧まで見せた断髪ガールへの大人の敵意が、チャールストンにも及んだのだ。 ダンスはよいが、ダンスホールは不健全だ、という意見もつよかった。【婦人画報】のような令嬢雑誌に載った、あるダンス教師の意見はつぎのようだ。 いわゆるダンスホールとして営業している場所には、苟(いやしく)もレディーたるものは絶対に出入なさらないように。(ダンスは)かならず家庭内で家族親戚、友人間でなさることをご注意申上げたいと思います。 このころのガイドブックによると、東京の場合、ダンスホールの入場料は50銭、ダンス代は昼が1回10銭、ただし夜はジャズがあるので20銭というのは理由がわからない。「二十歳前後の若いダンサーたちは、毎日午後の二時から夜の十一時まで、汗と香水と煙草の渦巻きのなかで、男の胸に抱かれて踊りつづけねばならぬ(……)」。ダンサーの取り分は4割だから、一晩5円かせげれば上々、という(今和次郎『新版大東京案内』1929)。 1928(昭和3)年11月には〈舞踏場取締規則〉、いわゆるダンスホール取締令が公布、施行された(→年表〈事件〉1928年11月 「舞踏場取締規則」1928/11/10)。この法律はむしろ、ダンスホールの健全運営を促すような内容のものだった。しかし地方によっては、ダンスホールを規制しようとする動きもあった。たとえば大阪府、京都府は条例によって、管轄域内のダンスホールに許可を与えなかった。そのため大阪のモダンボーイ、モダンガールたちは、神戸や西ノ宮、芦屋方面に流れ、阪神間モダニズム文化のきっかけのひとつを生んだ。 1932(昭和7)年6月、東京の実業家の令嬢山口某と、国華ダンスホールの教師松井某との銚子心中事件ということがあった。ダンスを母親や身内のものから、見よう見まねで自然に身につける、という機会のない日本女性の多くは、ダンス教習所で最初の手ほどきをうける。とかく「先生」に弱い傾向のあったその時代の女性が、見ばえのわるいはずのないダンス教師に、無抵抗になる危険はたしかにあった。この事件は結果が心中であったため、当局も直接には介入の理由がなかったが、この事件のあとダンス教師と上流階級夫人とのスキャンダルが露見する、ということもあって、教習所やダンス教師への規制が強まってゆく。1933(昭和8)年にはダンス教習所への新しい規制が公布され、そのなかでは、男の生徒には男の教師、女の生徒には女の教師、と規定されている(→年表〈事件〉1933年10月 「ダンス教習所に対する新規則施行」報知新聞 1933/9/5: 夕2)。 このあと、ダンスホールを舞台にした、いわゆる「不良外人」問題がおこる。もはや特権階級だけのものではないとはいわれながら、1930年代のダンスには、まだまだ有閑階級好みのバタ臭さ、もどこか匂っていた。 (大丸 弘) |