近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 身体
No. 105
タイトル 社交ダンス―上流階級の時代
解説

日本のフロア・ダンスの夜明けが鹿鳴館の舞踏会であることは、だれでも知っている。ただしそれは開化とともに入ってきた西洋の社交ダンスのことで、日本の舞踊だったらもちろん今さらではないし、じっさいこんな意見もあった。「近頃、猫も杓子もダンスというものを始めだして、女学校なぞも何処でもやる様子だがなんという醜態だ。それよりか日本の舞踏の方が手も動かすからよほど優美で且つ運動になる」(「投書―ダンスの流行」(読売新聞 1904/1/16: 6)。日本の踊りは手も動かす、という着眼はおもしろい。

舞踏会だけでなく、1880年代後半(明治10~20年代初め)の、その短い時期におこった多くのものが、欧化主義者たちの前のめりの姿勢に、つきうごかされての現象だった。有志のサークルや私的な教習所だけでなく、女子師範学校ではその時期、教科として1週1時間ダンスのレッスンがあった。ある貴族は、社会改良の一つの方法として、大学の学生と高等女学校の生徒とをうち混ぜて舞踏会を開けば、おのずから教育ある男女の交際を円滑にするだろう、という説を唱えている。

そんな風にして覚えこんだダンスだったが、5年、10年経つうちには、大部分の女性にはうろ覚え以上ではなくなっていたろう。鹿鳴館はまもなく政府の手を離れて華族会館として利用されたあと、所有者は転々としている。

舞踏会そのものは、ひとつの外交儀礼としても、天長節その他の公的祝賀会にはたいてい催されていた。そういう場に臨む華族の奥方や、外交官夫人のなかには、むかしとった杵柄と、みごとなダンスを披露する人もあったようだ。たとえば1909年(明治42年)の東宮御成婚記念大夜会の様子は、つぎのように報道されている。

東伏見宮妃殿下と英国大使、伊国大使と鍋島候夫人、式部長官と英大使夫人等、蝶の如く花の如く舞いつつある間に、斎藤海相夫人は露国大使の手を引き現れ、万里の小路式部官はは露国大使夫人とともに躍り出し、大山大将夫人戸田伯夫人蘭国公使夫人伊東中将夫人等は末松子爵周布知事市来式部官等と携え現れ、入れ代わり立ち替わり躍り狂いて、十一時過ぐる頃未だ興尽きざるも舞踏会を閉じ、一同立食の饗を受けて退出せり
(→年表〈事件〉1909年5月 「輝ける大夜会」読売新聞 1909/5/1: 3)

貴婦人のなかに大山大将捨松夫人のような、鹿鳴館の花形の名が見える。ただしこの夜会のようなことは例外で、舞踏会といえば、「舞踏は例によって外国人の独占だった」というのが実情だったようだ(→年表〈現況〉1898年11月 「外相主催天長節の夜会」東京日日新聞 1898/11/5: 3)。

この翌年、帝国ホテルは舞踏場を新築する。帝国ホテルは鹿鳴館の隣という場所だったから、鹿鳴館の舞踏会が、しばらくときをおいて引き継がれたかのような感慨をもった人もあったろう。帝国ホテルはこののち、土曜日ごとにダンス・パーティーを開くのを例とした。1923(大正12)年、フランク・ロイド・ライトによる改築後は、孔雀の間が舞踏場となる。

舞踏が不得手、ということのほか、洋風のドレスアップの不慣れさも、相変わらずのようだった。ホワイトタイであるべきなのにブラックタイ、というような失態はあいかわらず男性のほうだったが、そのなかにいくぶんか、欧米、とりわけすでに世界的潮流であったアメリカンスタイルの方向と、日本人のリゴリズム(厳格主義)とのバッティングという場面もあったかもしれない。帝国ホテルは土曜の舞踏会のシーズンチケットを然るべき人に発送していて、それを受けとった外務省のある高官がモーニングでおこなったところ、支配人に入場を拒絶された、といったことがあった。

燕尾服着用を要求する舞踏会とはべつに、1890年代末(昭和20年代末~30年代初め)には、いわば「民間」の、市中でのダンス愛好のニュースがあらわれるようになる。冒頭に引用した投書によると、その流行はかなりめだっていたらしい。ただしこの方は、投書のなかで「なんという醜態」とまでいわれているように、最初から反発や、猜疑心で見られてもいるようだった。

1907(明治40)年に、大阪市内の女学校教員をメンバーとする舞踏会が大阪ホテルで催された。これに対し風俗壊乱の媒介だからと、絶対禁止説も出て、女教員のなかには進退伺いを提出した人もあった(→年表〈事件〉1907年2月 「男女混交舞踏会」大阪毎日新聞 1907/2/17: 4)。しかし女教員たちの中心メンバーは体育会の会員で、従来の遊戯に代わる、学校体育の一部としてとりいれることを意図していたのだ。

社交ダンスとはちがうが、おなじころ、東京女子大学などでは、表情体操と名づけた一種のダンスの普及につとめていた(→年表〈現況〉1915年4月 「ルポ―女学校の運動」朝日新聞 1915/4/8: 5)。

若い女性、というより少女たちのお遊戯に近いダンスも、点々とその記録を拾うことができる。1899(明治32)年1月7日の[読売新聞]に、「麹町区富士見小学校では、内地雑居の準備として、女生徒に舞踏をやらせる、魂消(たまげ)た」という投書がある。また、1908(明治41)年4月29日の[東京二六新報]には、「近頃東京の小学生のあいだで、円舞の一種である四分の四拍子のポルカが流行」とある。

こうして見ると、醜態だとか、「魂消た」という人のいたことも、それはそれで事実として、ダンスということばがかなり包括的につかわれているなかで、若い人たちのあいだでは遊戯や体操と区別のつかないような、適当に自己流の、西洋風のステップや振りつけがだんだんと身についていったと考えられる。中村武羅夫の新聞小説「緑の春」(国民新聞 1924/8~)では、箱根宮ノ下の旅館で、若者たちが、いい加減なステップのダンスに興じて、それを「馬鹿ダンス」と自称している。

正式なステップを教える、まじめな社交ダンスの教習所ももちろんあった。長年サンフランシスコでダンス教師の経験をもつ池内徳子が、東京・京橋でダンス教習所を開いたのは1922(大正11)年だった。運動に関心のある医師の家族が、かなり多くレッスンを受けたという。

(大丸 弘)