近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 026
タイトル 収納/管理
解説

脱いだものをその辺に放っておくのでなければ、長押の釘にでもひっかけておく。これがいちばんかんたんな、収納とはいえないが、管理の仕方だ。だから安普請の貸家の長押には、やたらに釘や釘穴があったものだ。釘や木ねじよりマシになったのが、種類豊富なフックだ。

長押や柱にフックをとりつけてハンガーをかける、あるいはフックつきの板を壁に固定するという、現代ではありふれた方法は、洋服や帽子、手提げ類の普及した1890年台(ほぼ明治20年代)以降のことと考えられる。鳥打帽のような安直なかぶりものを、いちいち奥の戸棚にしまっておきもしないだろうから。鳥打帽が最初に流行したのは、1900年頃(明治30年代半ば)だった。商家の出入口近くや、奉公人の寝起きする部屋の入り口近くには、かぶりものだけでなく、出るときの提げものや首巻きのたぐいをひっかけておく、鍵釘やフックのたぐいがなければ不便なはずだ。

それ以前、幕末から明治初めの貧乏屋にかならず見られたのは、長押から2本の紐で下げられている、細い竹の棒だ。これがもっともかんたんな衣桁(いこう)だった。脱いだ半纏をチョッと袖畳みしてひっかけておくのも、湯のあとで濡れ手拭をかけておくのも、これだったろう。そうでなければまた長押の釘が役にたつ。裏長屋住まいに押入はなく、箪笥のあるはずもなかったから、六畳か四畳半くらいの部屋の隅に畳んである煎餅布団にのせた、わずかな着替えの入った行李以外、収納するスペースはなかった。

そのため長押の上にはかならずといっていいくらい、棚を吊った。引越しのとき手伝いの友だちが、器用に棚を吊ってくれたのはいいが、すぐ落ちてしまったのであとで文句を言ったら、なにかものを乗せやしなかったかと言ったという、聞き飽きた落語の枕がある。

もうすこし上の生活であると、脱いだきものに一時風を通すためにも、衣紋(えもん)竿(衣紋竹)が使われた。衣紋竿は今日の和服用のハンガーと、そう大きなちがいはない。赤穂義士のひとり赤垣源蔵が、ひそかに別れを言いに訪れた叔父があいにく不在だったため、衣紋竿に吊された叔父のきものにむかって「徳利の別れ」をする、という場面が義士伝の講釈にある。和服用の衣紋竿は、洋服のハンガーとくらべるとかたちは単純だが寸法はずっと大きいので、伸び縮みのきくもの、二つ折りのものが工夫されている。

折りたたみ式の漆塗りの衣桁は、江戸中期以後は廃れたように書いている本もあるが、新聞挿絵中の古い家の室内にはいくらでもみとめられる。きものや帯を引っ掛けておくだけなら、たいていの家にはあった小屏風でもよいが、虫干しのときには衣桁は大いに役にたつ。

江戸時代の庶民にとって、多くは行李が唯一の収納具だった。それにくらべると明治大正期には中下流の家庭でも、もっている衣類の数もふえ、押入にはいくつかの行李や葛籠(つづら)、ときには茶箱があり、出し入れの多い衣服のための箪笥を、ひとつももたない家はすくなかったろう。旧時代の代表的な嫁入り道具だった長持は大仰すぎて廃れ、それに代わったのが茶箱だった。葉茶屋で譲ってもらったりする茶箱は、内側が薄いアルミ張りになっているので、防湿については安ものの桐の箪笥より確かだった。

葛籠は行李とほとんどおなじ素材をつかっているが、隅々を丈夫な布で補強し、黒い漆掛けをしているので、ずっと頑丈で、それだけに重く古風な感じだった。だからよりだいじな物をしまっておいたらしく、舌切り雀がお爺さんにくれた宝物は、行李でなく葛籠に入っていた。明治大正期の苦学生が下宿を渡りあるくときは、たいていは本の包みと、紐を十字にかけた、柳行李ひとつをさげていたものだ。

箪笥には種類が多い。嫁入り道具の標準とされた長持二棹、箪笥三棹、などの箪笥は、四隅や要所要所に黒い金具のついた古風な箪笥。しかしもっと庶民的なタイプは、のちに和箪笥といわれるようになった、釣取手、いわゆる鐶(かん)のほかは金具をつかっていない、塗りのないもの。桐製がふつうで、間口三尺程度、奥行き一尺四寸、これは畳んだ着物の幅。高さは抽斗部分は四尺(120センチ)まで。これはそのころの女性の標準的な身長による。

1900年代以後(ほぼ明治30年代~)、箪笥にはいくつかのイノベーションがあった。大型の箪笥は重ねになっているのがふつうだが、その上段を観音開きにして、なかを抽斗でなくスライド式の棚にしたものがあらわれた。これを改良箪笥といい、あるいはこれを洋箪笥と呼んでいたひともあるようだ。衣服は重ねておくと、長いあいだには下になった物にはいやな皺がついたり、ふくらんでいるべきところがぺしゃんこになったりする。きもの1、2枚分の高さしかないスライド式の棚は、その点で大きな進歩だ。ほぼ全体を開き戸にして、なかの衣服はハンガーに吊すようにした、洋風の洋服箪笥はそのあとになる。

日本人の住まいそのものが大きくなる以上に、家具が増えた。せまい畳の部屋に、白っぽい和箪笥と、ニス塗の洋服箪笥の並んでいるのが、1930、40年代の都市家庭のありふれた情景だった。1930年代末(昭和14、15年)のある調査では、都市では半分以上の家庭がもう吊下げ式の洋服箪笥を持っていた。もっとも、箪笥の右半分だけが洋服掛で、左半分は本箱、といった構造のものもかなりあったようだ。その時代の一般的な洋服所有数は、その程度のものだった。

衣服を洋服箪笥に収納するにも、壁に吊すにもハンガーが必要だ。とりわけテーラード・スーツを長期間吊しておく場合は、ハンガーのかたちが死命を決する。しかしハンガーのかたちについての考慮は、長いあいだなおざりにされていた。その理由はなによりも、洋服業界には、長期間保存という必要がなかったせいだろう。

(大丸 弘)