近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 025
タイトル 裁縫教育
解説

裁ち縫いは女の仕事であり、嫁にゆくにも、器量と健康のつぎくらいには重んじられたから、好き嫌いと器用不器用は別として、ふだん着るものを自分の手で仕立てられないような娘は、明治時代にはまずいなかった。

裁ち縫いの手ほどきはもちろん母親の役目だ。その時代の裁縫書には、針仕事の手ほどきとして、幼い女の子に解きものをさせることを勧めている。きものを洗濯するためには、糸をぬき、反物のかたちに戻すのが原則だから、教材はいくらでもある。いちばんやさしい女ものの襦袢からはじめさせると、まず襟裏を解いて襟を外し、つぎに裾、両袖を解き、両脇をはなし、背筋から袖口、袖下人形を解けばおわり。

糸をぬくには、切れないように注意ぶかく引かなければならない。ぬきとった糸はどんな短いものでも、再利用するために巻いておく。これは注意ぶかさと、節約の心を養うためにだいじなこととされた。きものをふるって、見えなくなった一本の糸をさがさせるようなこともあった。ラジオもなかった明治時代には、針仕事はたまに鋏の鳴る音がするくらいで、じつに静かないとなみだった。だから母親のぽつりぽつりしゃべる語りかけが、おそらく一生ぬけないような、少女の記憶への擦りこみになったはずだ。一般に針仕事は、娘のしつけと結びつけて考えられていた。明治時代の裁縫書には、裁ち縫いの指導と、女の道の教訓や、処世の智恵などとが入り交じっているものがある。裁縫教育とはそういうものと信じられていたのだろう。

かたちのあるものを縫う前に、運針の稽古があった。男の子の仕立屋の修業では、すごい量の雑巾刺しをさせられる。この雑巾は荒物屋で売物にするから材料はいくらでもある。運針の早さとあわせて、職人としての手首の鍛錬も目的だった。

ふつうの女の子にそこまでの必要はないが、ほころびの綴り方にも知っておかねばならないことはある。木綿ものと絹ものとはちがうし、また破れ方や場所によっての、繕いようの工夫がある。そんな根気しごとでも、少女たちのなかには興味をもってする子もいる。そんな子がお手玉やお人形作りなどが許されると、子守をしていても、友だちとかくれんぼうをしていても、赤い小ぎれを離さないような子が出てくる。

すこし大きくなった娘たちのためには、都会では前時代以来のお稽古所が繁昌していた。仕立屋も、すこし手の上がった娘たちの修業に利用されていたものがある。東京では若い子のお稽古場と、呉服屋の下請けしごとを兼ねた仕立屋がたくさんあったようだ。日本橋周辺、立花町、人形町あたりの呉服屋は質ながれの反物などをひきとって、そういう師匠のところへ出す。絹ものが多いので、腕の確かな師匠でないと間にあわない。こういう師匠のところで修業がてら働いている子は、1900年代(明治の末頃)、木綿もので月10円くらい、絹ものだと17円くらいの収入にはなったという。こういうルートで縫いあげられた出来合の着物や羽織を仕立物とよんで、呉服屋の商品の一部になっていた(【家庭雑誌】(博文館) 1910/3月)。

1910(明治43)年前後で、女学校を卒業する娘は全国で約11,500人だった。明治・大正期の日本の女たちの裁縫教育を考えるうえで、女学校出の裁縫教育の比重をあまり大きくみるのはいくぶん問題がある。

学校での裁縫教育は、衣服、あるいは服装教育の一部であるはずだが、近代教育の発足以後かなり長いあいだ、衣に関する教育は即、裁ち縫いの手技教育でありつづけた。

家政全体から家族の衣生活を考えるという観点は、1890(明治23)年頃から現れる。おそらくこれも欧米の家政書の影響によるものだろう。ただしその場合も、衣服と裁縫と別になっているのがふつうだった。1908(明治41)年に、その当時の大日本家政学会が編纂した『実用百科大全』では、第1章の「衣食住」のなかに「衣服」の項があり、その小項目は、「保温」、「材料」、「通気」、「素質と染料」、「洗濯」となっている。つづく第2章は「育児」、第3章が「裁縫」。

女学校における近現代の裁縫教育は、3つの基本的課題をかかえることになる。

第一は、和裁本位から出発した授業科目に、洋裁をどう受けいれるか。

第二は、既製服時代に、裁縫技術が必要かどうか。

第三に、学校教育法の時間的制約から、専門課程を修了しても、技術レベルが低いこと。

第一の課題は、1920年代(大正末~昭和初め)以後、洋装が子ども服や婦人服に普及しはじめた頃から切実になってきた。すでに1924(大正13)年という年に、ある婦人雑誌の座談会で、作家でジャーナリストの三宅やす子は、こんな発言をしている。

理想を言えば女学校でも和服裁縫を全廃してしまいたい。和服の縫えない、洋服の縫える女が沢山になれば、すぐ服装は改良されます。そして和服は仕立てさせても和服の仕立賃は僅かなものですから、そして、和裁裁縫など学校で習わなくてもだれにも教われます。
(「職業婦人の服装問題の批判」【婦女界】1924/5月)

これに対して、女学校長でこの時代の著名な教育評論家でもあった宮田修は、そんなことをすれば大多数の裁縫の先生の仕事がなくなる、と反対した。洋服時代に入った1920、30年代(大正~昭和戦前期)の時点での和裁授業不要論、こえて既製服時代に入った第二次大戦後の裁縫授業不要論、その議論の当否はべつとして、膨大な数の裁縫教員のための職場擁護という理由も無視はできなかった。

すでに明治の初めの裁縫教本には、シャツなどわずかながら外来服種の製作は含まれていた。その後数十年のブランクをおいて、第一次大戦後にさまざまな条件から大衆的な洋装が、子ども服を手はじめにして入りこんできたとき、わずかながら、洋裁コースを置く学校もないではなかったが、一般に学校裁縫はこの風潮に冷淡で、授業内容はうしろむきだった。あいかわらず、もう過去のものである襲ねや綿入などを宿題にして、保護者を呆れさせる、というふうだった(→年表〈現況〉1921年10月 「投書―時代錯誤な御召の綿入の重ね」読売新聞 1921/10/10: 4)。大正デモクラシーの立役者と言われる吉野作造は、畑違いながら、当今の裁縫教授はあまりにも実生活とかけはなれていると嘆いている。

そんな時代のひとつの希望は、洋裁学校の誕生だった。1923(大正12)年、並木伊三郎、遠藤政次郎による文化裁縫女学校が、1926(大正15)年にはアメリカで修業した杉野芳子によるドレスメーカー女学院が設立される(→年表〈事件〉1926年12月 「高等ドレスメーカー女学院創設」読売新聞 1926/12/22: 3)。小さな洋裁教室は開国当初からいくらもあったが、それらとはレベルのちがう、洋装時代への大きな展望をもったこれらの学校は、モダン時代の若い女性の憧れになった。

(大丸 弘)