近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 024
タイトル ミシン
解説

わが国の開国以前に、欧米ではすでに各種のソーイング・マシン(sewing machine)はかなり普及していたから、ミシンの伝来は早かった。幕末の浮世絵にも、ミシンをかける外国婦人の姿があることはよく知られているし、1868(明治元)年の[中外新聞]には、日本人業者による「西洋新式縫物機械」の教授と、それを使っての仕立物引受の広告が出ている。

けれどもその時期のミシンは、両に換算して80両という記録が残っているように、気やすく手にいれられるような商品ではなかった。そののち1870年代後半(明治10年代初め)の洋服ブームを経て、1885(明治18)年になると、主な洋服裁縫業者および職工は東京だけで150余名にのぼった(「衣服改良の企画」『東京経済雑誌』1885/10月)。ミシンを扱う何人かの仲買人の名も残っているので、明治期を通じてかなりの数量が輸入されたにちがいないが、ミシンは洋服製造業者の営業用機器であり、専門業者以外の購入や利用がひろがるのは、ようやく20世紀に入ってからのことだったようだ。

それ以前の1890年代(ほぼ明治20年代)であると、裁縫書の著者たちにしても、ミシンについては実際的な経験を、あまりもっていなかったのではないかと考えられる。西洋服系の衣服で最初に裁縫書にとりあげられたのは、シャツや洋風の股引、帽子などで、これは開化後のごく早い時期からだった。まだ洋裁和裁という区別の観念もなく、襦袢や股引の解説の延長で、当然すべて手縫いを前提としている。

裁縫書ではないが1894(明治27)年に刊行されたある家事実用書の裁縫の部では、最後の「洋風裁縫の心得」のあとに「ミシン機械」が4行だけ添えられ、「洋服を縫うにはミシン機械を以てす、而して其ミシンには輪縫と本縫の二通りあり(……)其委(くわ)しき事は何れ其道の人就きて之を習うべきなり」と逃げている(伊東洋二郎『絵入日用家事要法』)。

1905(明治38)年に刊行された、その時代の信頼できる裁縫書のひとつ、岡本政子の『和洋裁縫全書』でも、つぎのように言っている。

本書載する所の洋服裁縫は、僅かに一小部分に過ぎず、大人用の洋服の如きは例え型に依りて、これを裁ち得るとするも、悉(ことごと)くミシン縫いにして、(……)家庭にありて之を備うるは、現今の状態に於いては、誠に稀にして、絶無と云うも不可なきが如くなれば、其の要を見ざるを以てなり。
(岡本政子『和洋裁縫全書』1905)

そのようなミシンの理解だったから、かなりの誤解もあった。この時代の欠かせない流行リポーターである金子春夢は、1894(明治27)年の【家庭雑誌】の「手芸案内」のなかで、出来合のシャツについて、「縫いもミシンを用いあるからに、其体裁の好きに似ず、ややもすればバラバラとほどけて、また弥縫(びぼう)すべからざるに至ることあり」と、くさしている(→年表〈現況〉1894年12月 「ミシンの欠点」【家庭雑誌】No.42 1894/12/10)。バラバラほどけるというのは論外としても、頻繁な縫い直しの習慣をもつわが国のような衣習慣であると、むしろ糸をほどきにくい――引き抜きにくいのは都合がわるい。そのために1900年代に入った頃から、その点の工夫もある何種類かの和裁用ミシンが考案されているが、あまりよい結果はなかったらしい。

1900年代(明治30年代後半)以降の、ミシン裁縫の普及に力のあったのは、シンガーミシン企業の営業努力だったろう。シンガーの社史によると、日本上陸は1900(明治33)年ということになっている。東京支店長として米国から帰国した夫に協力して、女高師出身の秦利舞子(りんこ)は有楽町にシンガー裁縫女学院を創設し、洋裁教育とミシンの宣伝普及に努めた。月賦販売の口火をきったり、個人の家庭に無料で貸しだしたうえ講師まで送ったりと、あの手この手の販売拡大が図られた。

しかしミシンはまだ逆風の時代で、裁縫女学院に対して、またなぜか秦利舞子自身に対しての悪意ある陰口もあった。おなじものを縫うのに、縫い針の値段は1厘(1銭の十分の一)、ミシンは安いものでもその何千倍もする。そういうことへの素朴な抵抗だったのだろうか。

ミシン縫いはほどけやすいと言いながら、経済の観点からは、【家庭雑誌】は別の号のなかで、下着類の出来合物を買うより、ミシンを使って自家製すれば、男の子がふたりの家庭なら、1年間には10円近くが得になるという試算を出している(「ミシンと経済」【家庭雑誌】No.4 1892/12/15)。しかしこの時代、家族の下着類をみんな出来合で買う家庭は少なかったし、ミシンの価格を5円から、としているのも疑問がある。1909(明治42)年の時点では、ミシン1台の価格は60円以上(→年表〈現況〉1909年6月 戸板関子「家庭でのミシン裁縫」【家庭之友】1909/6月)であり、関東大震災当時になると、高級品は140円以上もしている。

1910年代後半(ほぼ大正前半)に入る頃には、ミシンについての反感や誤解もうすれ、嫁入り道具として1台のミシンを加えるような時代になってきた。関東大震災(1923)前、ある新聞には、買ったきり使っていないミシンが、推定で東京市内の上中流家庭に5、6万台、と報じている(→年表〈現況〉1922年4月 「内職でミシンの既製服」読売新聞 1922/4/20: 4)。

震災以後になると、従来の手縫いと比べて、ミシンが現代の衣生活にもつ重要な意味がようやく広く認識されてきたらしく、初等教育のなかでさえこれを採りいれようという動きがはじまっている(→年表〈現況〉1924年4月 「小学校女生徒にミシンを教える」時事新報 1924/4/13: 6;→年表〈現況〉1924年7月 「経済的な夏の子供服」東京日日新聞 1924/7/21: 5)。

またシンガー裁縫院だけでなく、文化裁縫女学校など、その頃つぎつぎに生まれていた洋裁学校を、マスコミが「ミシン裁縫学校」とよんで紹介しているのはおもしろい(→年表〈現況〉1925年1月 「増えて行くミシンの学校」国民新聞 1925/1/22: 6)。

嫁入り道具にもってきたミシンで、赤ちゃんの着るものを縫ってみるような使い方でなく、ミシン1台を月賦で購入し、1年も経たないうちに1日にシャツなら12枚も縫える腕になる女性もあった。1917(大正6)年の【婦人雑誌】に「最も文明的な家庭内職」という短文を投稿した彼女は、「やがて私の腕一本で百二十円のミシンが一台買える」と誇らしげに言っている。ミシン内職はこの時代、けっこう人気のある家庭婦人の仕事だったようだ。

じつは、1910年代(明治末)以後、ミシンがいちばん唸りをたてていたのは、大都会の場末の、あまり健康的とはいえない家々のなかからだろう。1919(大正8)年に刊行された『有利なる家庭の副業―都市商工』はつぎのように言う。

輸出品の関係上、もっとも低廉なる原価を維持するには、どうしても従来の家内工業を基とし、低廉なる工賃によって、製品の数を殖やすという手段に出ねばならぬ(……)。
(高落松男『有利なる家庭の副業―都市商工』1919)

本文のなかではくりかえし、家内工業とそれに付随する内職、といっている。われわれはごく自然に、現在の東南アジアの低価格衣料を連想せずにはいられない。1910年代から30年代(大正~昭和戦前期)にかけて、東京・横浜・大阪などの大都市周辺部には、メリヤスシャツ、ズボン下類を主とする、低賃金のミシン裁縫工業地帯が存在した。踏板に脚が届きさえすれば、ときには踏板に仕掛けをして、小学校5、6年の少女までがミシン裁縫の内職にかりだされていた。本縫用のシンガーミシンで、ほとんど直線縫いのスピードだけを競うメリヤス衣料のほか、各種の帽子、下駄の鼻緒、袋物、蝙蝠傘、等々が、そんなふうにして生産されていた。

(大丸 弘)