近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 023
タイトル 家庭縫製
解説

時代が明治と変わっても、役所勤めなどの主人をもつごく一部の家庭を除けば、着るもののほとんどすべては家の女たちの手仕事で縫いあげられた。この習慣は地方ではもちろん、着物を日常的に着ているかぎり、大都会でも第二次大戦以前には一般的にみられた。よほど不器用だったり、針を持つのがきらいな女、ひとり者の男などは、柳原その他に軒をつらねている古着屋の客になるか、だれか人に頼む。看板をあげている仕立屋ばかりでなく、安い手間賃で気軽に頼め、ほころびの繕いや、襟の付け替えや、ついでにすすぎ洗いまでしてくれるような内職の女は、下町の裏店にはずいぶんいたようだ。井戸端のお上さんたちは、羽織ならおらくさんに頼むのがいいよ、などという情報をもっていた。若くして亭主を亡くした女でも、白羽二重を赤糸で縫って糸目を見せないという技倆で、りっぱに子どもを育てあげたという、『路傍の石』(山本有三 [朝日新聞]および【主婦之友】1937-1940)の母親のような例は、それほどめずらしくはなかった。

女性の裁ち縫いの技術は、最初は母親から、見よう見まねで学ぶのがふつうだったろう。したがってデザインや技法上の発展はとぼしく、かりに個人的工夫があったとしてもそれが広がってゆく可能性は小さい。和裁技術ではずいぶん後の時代になっても、教えられたやり方の尊重、むしろ固執の傾向があり、スタイルの固定のひとつの理由になった。母親から女の業として仕込まれた、むしろしつけられたということが、裁縫教育、さらには和装そのものにも、あるニュアンスを与えたともいえる。

都会の女子は、何等か他の専門職業に暇無き人を除く外、家人の衣服を裁縫する程の余力の無かるべき道理は無い。日本の衣服は、西洋の衣裳のように、決して、仕立屋に依頼する必要は無いのである。如何となれば、其の裁縫の容易なると同時に、又これを解き更うることが頻繁であらなければならぬ。であるから、銘々に裁縫する方が、便宜で且つ経済である。
(下田歌子『女子の技芸』1905)

時代がすでに大正に入った1916(大正5)年の女性雑誌のなかにさえ、家の者の裁縫を外に出すことの不経済さが強調されている。ある学者が、自分の妻は一日裁縫ばかりしている、外に出したらよいだろうといっても、一向そうしようという気を起こさないので困る、とこぼしたのに対して、傍らにいた数学の先生が、「君の家族は七人ではないか、一人の人間が、冬何枚の着物を着るかというに、先ず羽織、上着、下着、長襦袢、襦袢の五枚は少なくとも着なければはならぬ、それに帯と袴を加えたら七枚になるが、それは別としても五枚の着物を上中下の三通りとしても、一人に十五枚無ければならぬ、それが七人と見て百五枚になる、冬だけで百五枚、それを袷から、(……)夏物は着替えに数がいる(……)を数えたら何百枚という数になる。それを一つ一つ仕立屋に出してみたまえ、一枚三十銭平均としても非常な高額じゃないか、コートの如き一枚二円もするものもあるに至っては、決して容易ならぬことだ、君の奥さんはえらいよ」と指摘し、学者さんも納得したとある(「仕立ものを外へ出す善悪」【婦人界】1916/3月)。

仕立物を外に出さない習慣は、東京より京阪の家庭につよいといわれた。それは上方の女性の身上(しんしょう)もちのよさからだという。

仕立屋に仕立てさせると、恰好をよくするために強い鏝をかけるから、反物が傷んで、後のために悪い、それに、余った布を横取りされることがある、というのが仕立屋を嫌う原因なのです、そして恰好が悪くとも手縫いに満足して、角々へは裏から別の切れを当てたり、変な裁ち方をしたりして、専ら反物の傷まないことを考える。これも東京風に考えればケチですが、上方婦人の物持ちのいい片影です。
(「婦人と社会―仕立屋嫌い」読売新聞 婦人付録 1918/2/15: 4)

男女の洋風下着類は開化のあとの早い時期から、和裁の一部として教えられていた。とりわけミシンが普及しはじめると、夫や子どもたちの下着は、ミシンの修練のためのよい材料にもなったろう。下着や子供ものは、見てくれや流行をそれほど気にしないですむものだけに、妻や母親の大胆なアイディアの生かせる余地もあった。1910年代から30年代にかけての時期(大正~昭和初期)、子供服の急速な発展には、家庭ミシンの普及と、【主婦之友】、【婦人倶楽部】、【婦人之友】などの実用記事が、たよりになる環境をつくっていたにちがいない。

家庭裁縫のなかにスーツまでも含めようとする意図は、開化の当初からあり、その後も裁縫書のなかにおりおり現れている。小林紫軒の『和洋裁縫のおけいこ』(1907)では、片前背広の上着の裁ち方中で、弛み、伸び、という表現で、 テーラリング・テクニック(tailoring technic)の鍵であるシュリンキング(shrinking)とストレッチング(stretching)の説明までこころみている。おなじ洋服といっても、ブラウスとジャケットの仕立ての技術のちがいもわからない素人の主婦たちに、かなり高いレベルの目標を設定しているようだ。昭和に入った1928(昭和3)年、ある裁縫教育者のつぎのような提案がいかに現実的でなかったかは、今日すでに答えが出ている。

一般の家庭の人達も洋服は洋服屋から買わねばならぬように思惟し、且つ洋服は和服に比較して甚だしく高価であると考え違いして居るのですが、洋服は決して高価なものではなく和服などよりも遥かに低廉につくものです。その上自分で簡単に縫うことさえ出来るのです。ミシンがなければならぬと思うのは間違いで、結構手縫いで出来るものです。二週間も熱心にやりさえすれば、男の学生服その他も覚えられますし、男の背広服もそう難しいものではありません。
(「洋服は御自分で作るのが得です」都新聞 1928/8/14: 5)

一心に動かす指の先から形のあるものができてくる、ものづくりには代えがたい愉しさがあるだろうが、家のものみんなの着るものの責任をもつとなると、大変さのほうが重く肩にのしかかる。おなじものづくりでも、染物や毛糸編には、工夫という遊びの要素が大きいため、若い世代の人たちの人気が拡がっていった。もちろん家族の着るものを縫いあげるのにも工夫の余地はいくらもあるし、またなければならないのだが、絞りや臈纈染め、フランス刺繍、またハイカラなセーターを編むのに比べると、遊び心はすくないといわざるをえない。

都会地にかぎっていえば、家族の着るものがほとんど洋服になった1930年代(昭和5年~)は、長いあいだ裁縫で鍛えた女性たちの指先は、こうした趣味の手芸のなかでも、とりわけいつどこでもできて、実用性も高い編物にむかった。冬といえば綿入きもので丸くなっていた子どもたちは、母親の手編みの、【主婦之友】や【婦人倶楽部】の付録のデザインの、ハイカラなセーターを着て飛んで回る、昭和の子どもになった。

その一方で、安い値段で出回るようになった既製洋服類、とくに婦人子供服を漁るために、女性たちは喜々としてデパート通いをしたのもこの時代だ。

お子様方のお召しになる洋服を最も経済的にお求めになるためには、既製品を上手にお求めになることです。注文服は(……)どうしても七割くらいはお高くなります。(……)よくお子様方のお洋服をお母様方の手で新しくお仕立てになりますが、これもあまり経済的ではありません。例えば五つくらいのお子様のお洋服は五円くらいで既製服でありますが、これをお宅でお仕立てになるとして、(……)四円、乃至四円五十銭位かかってしまいます。これでは忙しい時間を割いて、わざわざおつくりになっても大したことはありません。
(→年表〈現況〉1934年3月 「既製子供服」読売新聞 1934/3/13: 9)
(大丸 弘)