近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 022
タイトル 洗濯
解説

明治のはじめ、欧米からの輸入品のなかには相当量の洗濯石鹸があった。洗濯の近代史の上でこのことを第一のステップとすると、第二のステップは、1880年代末(明治20年頃)から横浜、長崎、函館、大阪などの主として開港都市ではじまり、1900年代初め(明治30年代半ば頃)の東京におよぶ上水道敷設、第三は1950年代後半(昭和30年頃)以後の家庭電気洗濯機の普及となる。

洗濯石鹸については、1877(明治10)年になってはじめて、化粧石鹸の輸入金額が、洗濯石鹸のそれを上回った。石鹸自体、それほど複雑な製造設備を必要とするものではないので、粗悪な製品であればすぐにわが国でも製造がはじまっている。まず最初に洗濯石鹸の生産が伸びたのは、良質の、皮膚を刺激しないような化粧石鹸に手がとどくまでには、もうすこし時間がかかった、ということだろう。

それまでの洗剤は主として灰汁(あく)だった。質が悪いとはいえ灰汁と石鹸とでは汚れ落ちが違うから、石鹸へのきりかえは割合スムーズだったようだ。しかしこの時代の洗濯石鹸は水に溶けにくかったらしく、けずってじゅうぶん水に溶かしてから使うとか、ひと晩、洗い物と石鹸を水につけておく、とかの工夫を勧めている家政書もある。洗いかたとしては、洗いものを板の上にひろげて、竹のささらか毛ブラシで、ゴシゴシやるのがふつうだった。その後どこの家庭でもふつうのものとなった洗濯板は、1893(明治26)年6月に民友社の【家庭雑誌】のなかで、「近来盛んに用いらるる洗濯器」として紹介されている。ただしこれも日本人の発明ではなく、欧米で使用されていたものの真似。

落ちのよい洗剤をつかったとしても、手洗いはけっこう体力を必要とする。そのうえ汚れ落ちの悪い洗剤相手の力仕事が、この時代の洗濯だった。洗濯はふつう大盥(たらい)を使った。井戸端の時代も各家庭に水道がひかれるようになった時代も、その点はあまり変わらなかったろう。盥を前にして、女性はしゃがんで、この力仕事をした。膝と膝をほんのすこし離すことも恥じたその時代の女性が、洗濯のときばかりは、あられもない恰好をすることについては、ずいぶん批判があった。

その姿勢の不衛生的なるのみならず、不美術的なることは、屡々(るる)外国人をして嘔吐せしめます。
(婦女新聞 1907/4/22: 8)

日本人はしゃがんでなにかをすることに慣れていて、欧米のように立って洗濯したり、アイロンかけをしたりすることには違和感があったらしい。川辺でしゃがんで洗濯する習慣は外国にもあるが、前の開く衣服がなく、スカートのヴォリュームがあるために気にならない、ということもある。せめて椅子に腰掛けて洗えという忠告もあったが、盥の高さの具合もあってこれはむずかしかった。各家庭に水道がひかれると、当時は多くの家庭では、水道の蛇口は台所の流し1カ所だけだったから、立ち流しの家なら洗濯もその流しを利用することになり、しゃがみ洗濯の問題は一応解決する。しかしもちろん、台所の流しを洗濯場にすることを嫌うひとも多かった。

女性にとって洗濯の辛さのひとつは、冬季の水の冷たさだった。水道の水は井戸水にくらべてひとしお冷たい。湯をつかった方が汚れもおちやすいといって、洗うときだけ薬罐の湯をさしたりすると、それが気に入らない年寄りがいたりした。この時代、女性の手のひび、あかぎれ、しもやけはあたり前だった。

冷たい水に手を入れずにすむ洗濯法――ハンドルのついた撹拌式の国産洗濯器の宣伝は1920年代(大正末~昭和初め)からある。もちろんこれは欧米で先行したものの真似だが、昭和初年にどの程度普及していたかを知るのはむずかしい。1938(昭和13)年の婦人雑誌に「冬の自動洗濯法」という記事があり、過ホウ酸ソーダを用いるドイツ式の洗濯が紹介されている。「これは従来のお洗濯のように揉んだり擦ったりする必要がないので、欧米では自動洗濯法と呼ばれ、非常に流行しています」(【婦人画報】1938/1月)とある。この短い記事に添えられているカットは、絞り器もついている手回し洗濯器だ。一部の家庭では以前からの盥洗濯と併用していたのだろう。1930年代(昭和戦前期)になると電気洗濯器の宣伝もはじまるのだが、その本格的普及には大戦を越えてあと四半世紀が必要だった。

時代が20世紀に入るころまでの日本人は、現代と比べると汗や垢のついたものを身につけていただろう。欧米の人たちは、日本人がよく入浴してからだをサッパリさせるのを好んでいるのに、下着は洗わずにまた着込むのを見て、だから入浴するわりに日本人は異臭がするなどと言っている。とはいえ水に恵まれた日本人は、水の不自由な地方の多い中国人などに比べれば入浴や洗濯の頻度は多く、その点は欧米人も認めている。

しかしひとつには、絹ものを好んで身につけてきた日本人は、衣服はできるだけ洗わずに、その代わり汚さないための工夫をしてきた。襟や袖口に別布をかけるのもそのひとつ。また汚れる箇所は汚れの目立たないような工夫もした。その掛襟や、下着や、きものの裏、夜具の襟などに、濃い色を使うのもそのひとつ。白い下着は近代のしるしになる。

開化の時代になると衛生上の観点からこういう工夫にも批判がむけられて、できるだけ衣類の、とくにシャツ類の洗濯の頻度を増すよう勧められた。下着については冬は少なくとも週1回、夏は週に2回は着替えたほうがいい、など。それでもけっこう紳士風の人が、垢染みたカフスやカラーをつけている、という描写が小説などによくみえている。

洗濯の頻度が低かったのは、和服の構造にもよる。和服で丸洗いできるのは木綿の浴衣くらいで、大抵のものは解き洗いが必要だった。だから和服のミシン縫いが推奨されたとき、ミシンで縫ったきものは解くのがたいへん、という抵抗があったりした。ことに綿入きものとなると、これを洗濯するのは大ごとだったから、貧乏人の綿入きものといえば、多かれ少なかれ垢染みているのはあたり前だった。

その点は蒲団も同様だ。1920年代(大正末~昭和初め)に、それまではおもにマントとして愛用されていた毛布が、寝具として普及しはじめた。直接には綿繊維の暴騰のためだったが、「蒲団と違い日光消毒も簡単、洗濯も無造作にできる。したがって各階級を通じて受けがよく、寄宿舎に入れる学生や、女工宿舎などで使用することが多くなった」と(→年表〈現況〉1920年2月 「毛布の普及」報知新聞 1920/2/19: 夕7)。

(大丸 弘)