| テーマ | 装いの周辺 |
|---|---|
| No. | 021 |
| タイトル | 繰廻し/更生 |
| 解説 | 国語辞典を見ると、繰廻しとはやりくりすること、とあり、主として金銭に関することともある。それではやりくりとはなにかというと、なんとか間に合わせる、ということだそうだ。家庭で主婦たちのする繰廻しもたしかにやりくりにはちがいないだろうが、それほどむりな間に合わせ、というよりも、工夫して、べつの目的のものとして生かす、という意味で、戦時下にできた更生ということばは適切だ。このことばでは、間に合わせとか、やりくりということばのもつ、どちらかといえばマイナスイメージが、かなりぬぐい去られている。 衣服には着る場合と着るひと、そして衣服の種類の違いがある。貧乏人が冬のあいだ着た綿入れの綿を抜いて春先に着、その裏を剥がして夏の単衣にする、というのは、構造に手を加えて、着る場合を変えたことになる。方法としてはこれとおなじに、裏地をファスナーでとりつけ、はがれるように仕立てたジャケットは、今では少しもめずらしくない。 ある奥さんは雑誌の取材に対してこう言っている。 私は御召の寿命を八年として、最初の三年は晴れ着、つぎの三年は買物着、つぎの二年は応接着として、後は未だ丈夫で御座いますから、召使いなどの羽織にして遣わします。 着る場合、つまり目的を何回か変え、最後にかたちに手を加えて服種が変わり、あわせて着る人が変わったということは、目的が変わったことになる。 また、大人物を子ども物に縫い直すとか、袖口の傷んだ主人の背広の袖を切り落として、老人のチョッキにするとか、こういった仕立直し、とりわけまったく別の衣服への変更は、一般性がすくないから、主婦の頭の冴えと、ときには度胸が必要かもしれない。もっとも、一般性が少ないとはいうものの、そんなに変わった衣生活をしている人もいないので、1930年代以後(昭和戦前期)の【主婦之友】や【婦人倶楽部】には、なるほど役にたつとか、ずいぶん思いきったナ、というような、主婦や専門家によるアイディアの紹介が溢れている。 繰廻しのもっとも基本的なしごとは、衣服の部分的な付け替えだろう。衣服には傷む部分と傷まない部分とがある。とくに和服は、かたちが単純で全体がほぼ直線的に裁断されているので、付け替えの可能性が大きい。 単衣袷綿入など裏返したり、洗濯したり、度々縫直した末には、大概裾の方及び膝の処が先に損ずるのでありますから、これを羽織に直しますと、一時(いっとき)はまたきれいに着用されます。 羽織の損じ易いところは衿と袖口であります。其の内もっとも損じますのは袖口でありますから、一度は奥口にして縫直しますが、両方が損じてきますと袖に用いられなくなりますから、衿と取替えるのであります。衿布は真中が傷みやすくて端の方は損じないものでありますし、袖布は袖口になる端の方が損じて真中が痛みませぬから、袖の損じたところを切り捨て、山継(やまはぎ)をして衿にいたし、衿布を二つに切りて両袖とするのであります。これも余りひどく損じては役にたちませぬけれども、少々損じた位は丁寧に補綴して切替えますときは、一時はきれいに着用することが出来ます。 傷んだ袖口布や裾回しを、シャツのボタンでもつける程度の気持で、子どもを寝かしつけながら、その枕元で付け替えてしまうような腕をもつ隠れた達人も、妻たちのなかにはいたのだろう。 そんな達人たちにとっても、「洋服の古いのは仕方の無いもの、ということになっていた。そして二束三文で古着屋へ売払ったり、紙屑屋の手に渡したりするのが誰しもの風習であった」(『一家の経済』1915)。けれどもこの時代あたりから、まるで畳のように、洋服の裏返し、という方法がとられるようになった。それは古洋服を解いて、擦れたり色の褪せたりした部分は捨て、各パーツをうまく組み合わせて、まったくちがった型の服に仕立て直す、という方法だった。もちろん家庭にミシンのあることが条件だったろう。ときには毛織物専門の染物屋にもっていって、丸色揚げしなければならないこともあった。染め賃は1円から2、3円、ということだから、スーツが安ものでもだいたい20、30円したので、主婦と、そして夫も、納得したのかもしれない。 繰廻し、というよりむしろ廃物利用なのだが、婦人画報のような雑誌でさえ、物不足になってくれば、不用になった古ワイシャツの、再利用の方法を種々紹介している。カラーやカフスは夏襦袢の襟になるほか、指貫や玩具箱に、また全体を使って子どものエプロンや、二枚合わせて羽織の裏にするほか、子どもの靴底にも、包帯にもなると。 かたちのあるものは軽々しく捨ててはならない、という教えを守っている人がまだ世盛りだった。戦争と欠乏の時代の到来が、そのあとそれほど時が経っていなかったのは、幸せだったかも知れない。 更生、ということばはすでに、昭和のはじめの「古着の再生の勧め」といった新聞記事のなかに現れている。「(古いメリヤスシャツを)巧く利用なさって、新しい更生法をかんがえるのも、必要なことであり、且つなかなか趣味のあるものです」(→年表〈現況〉1931年11月 「古着の再生の勧め」都新聞 1931/11/27: 9)。 しかしもちろんこのことばが重みをもって生活にかかわってきたのは、1940年代(昭和15年以後)の戦時体制のなかだった。「女学生のセーラー服を卒業してからの家庭服に更生」、「縮(ちぢみ)の着物を、時局向きの簡単服に更生」などの工夫が紹介され、とりわけ家庭の箪笥長持のなかに眠っている和服をなんとか生かそう、つまり防空服装として更生させよう、というはたらきかけが各方面でやかましかった。 戦争も末期の1943(昭和18)年になると、売る商品もなくなった大デパートのフロアは、中古品売買所と物物交換所、そして〈更生承り所〉に変貌した。新聞はこう報じている。「更生にもちこまれるものの8割が、防空服、国民服への改造で、とても需要に応じきれないため、簡単なものは家庭でやってくれるよう、音(ね)を上げている状態である」と(→年表〈現況〉1944年1月 「百貨店の衣料更正承り所」朝日新聞 1944/1/28: 3)。 (大丸 弘) |