テーマ | 装いの周辺 |
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No. | 015 |
タイトル | 照明 |
解説 | 明治の東京の町は暗かった。とりわけ1890(明治20)年頃までがそうだった。これは当時麹町に住んで銀座の新聞社に通っていた岡本綺堂も、回顧談のなかでくりかえし言っている。夜、町全体が明るかったのは、吉原遊廓ぐらいのものだった。 1874(明治7)年の暮れ12月に、銀座通りにはじめてガス灯の街灯ができる。「惜しむらくは灯火力弱く光うすし、およそ横浜街灯の半分の光焔なるべし」といわれたが。 その後それほど間をおかずに、日本各地に街灯が設置されはじめる。大阪市の場合、1877(明治10)年までに市内に設置された街灯の数は1,555基に達している。ただしこれは石油灯。こののち約半世紀のあいだ、灯火としての石油とガスと後発の電気とは、費用と手間と危険性の点でせりあいがつづく。街灯、軒灯に関するかぎりは、1910年代初め(明治40年代)までは石油ランプが圧倒していた(→年表〈現況〉1908年12月 「石油ランプ全盛」朝日新聞 1908/12/9: 6)。これはなによりも、ガスや電気はガス管なり電灯線なりをひくための、設備費が大きいためだ。とりわけ家の門口を照らす軒灯はそうだったろう。 個人の家で、ガス灯に似た硝子の容器にランプを入れた軒灯を出すようになったのは、1880(明治13)年という。世間では一般に外へ出すものはなんでもガス灯とよんでいたらしい。夕方、この街灯や軒灯のランプに火を入れて回る人夫を点灯夫といい、その日本点灯会社のできたのが1882(明治15)年。1908(明治41)年頃で、東京全市で約10万の軒灯がついていた。ようやく東京の闇も薄れはじめたとはいえ、街灯のあるような商業地域とちがい、住宅地域では道も悪かったから、月のない晩などはぬかるみを避けるのも一苦労だった。時代が飛んで住宅地のそこここにも電灯の街灯がつくようになった昭和に入るが、しかしまもなく灯火管制の時代が近づく。 電気灯が公衆の前に紹介されたのがその1882年のことで、銀座2丁目でアメリカ人技師の手で点灯され、その明るさは道往く人をおどろかせ、錦絵にまでなる(→年表〈事件〉1882年11月 「米国電気灯会社による試験点灯」報知新聞 1882/11/2: 2;東京日日新聞 1882/11/4: 3)。しかし電気灯は危険視され、1891(明治23)年1月の国会議事堂焼失も電気灯のせいと攻撃されて、電気是非論がもりあがっている(→年表〈現況〉1891年1月 「電気灯は議事堂を焼けり」東京日日新聞 1891/1/23: 3~)。 室内の照明は、前代のおもに菜種油をもちいた行灯(あんどん)が、開化の時代に入るとわりあい早いピッチで石油洋灯(ランプ)に代わる。それは費用も手間もそれほどちがわず、明るさが比較にならなかったためだ。蝋燭はもちろんどこの家にもあったが、油にくらべてすこし値段が高いので、ふつうは提灯とか手燭とかにしかつかわれなかった。 ともあれ人々にとって行灯とのつきあいは長かったから、ランプが入ってきても、いきなり行灯が捨て去られることはなかったようだ。 ラムプ消して 行灯ともすや 遠蛙 子規 という句でわかるように、就寝後は行灯につけ替える習慣がしばらくつづく。行灯の火影はやわらかく、ランプにくらべて危険も少ないと考えられた。ランプもまた当初は危険なものとされ、点火を誤り大やけどした女性や、石油が発火して兵舎が焼けた事件なども報道されている。読書用にはランプの光はつよすぎて眼膜に刺激ありともいい、佐田介石の有名な『ランプ亡国論』もある。 けれどもすこし広い座敷だと、部屋のどこかに一基だけおかれた行灯の光で、部屋の隅々まで読書できるほどの明るさは得られない。志賀直哉の『赤西蠣太』中に、蠣太が同輩から、昨夜もまた行灯と勝負でしたか、とからかわれるくだりがある。定石本を片手にひとり勝負をするのに、将棋盤の向こう側に行灯をおくからだ。八畳くらいの部屋の真ん中に行灯をおいても、灯心が一本だけでは、灯から遠い部屋の隅には影がのこる。微かな炎の揺らぎで、その影が生きているようにも感じられる。江戸時代の怪談は、こういう環境から生まれていた。 天井からつるして部屋全体を明るくする電気灯やランプとちがい、部屋の隅に置かれた行灯は、仄あかるい一方光線だった。そのために厚塗りの白化粧が冴えた。女性のゆったりした立居にしたがって、絹ものの光沢がなめらかに映え、金糸銀糸もしっとりと輝いた。平面的な完全照明の下では、銀糸は灰色に、金糸は黄色くみえるだけだ。 日清戦争(1894、1895)後の半七の家にはもう定額の電灯がひいてあって、それは東京でも早いほうだと説明されている。1890年代から明治末にかけての電気灯の普及は急速で、大正元年の1911年に96万灯、10年後には200万を超え、東京市内のほぼ全戸に電気がともった。もうランプを引き寄せて読書する、という時代ではなくなったが、逆に明るすぎることへの違和感も、最初のうちはあったようだ。就寝中も行灯をつけて寝る習慣のあった家では、明るすぎるといって、電灯に風呂敷をかぶせたりした。この時代は定額契約が多く、部屋ごとにきめられた燭光数の電球がついていた。 明るすぎるというその時代の電灯照明の実地調査では、1畳につき都会地で平均3燭、農村部では2燭だった(→年表〈現況〉1924年7月 「電灯の標準光度」国民新聞 1924/7/15: 2)。 この時期になると雑誌や新聞の流行欄などに、夜の室内の明るい時代の、きものの選び方に関する記事がめだつようになる。電灯に映えるこれこれの地質や染めかた、柄ゆき、金糸銀糸の使い方など、なかには夜会縮緬などというズバリの名をもつ製品も現れた。 これから大きな呉服屋は、夜の部屋というのを作っておかなければなるまいと提案する新聞もあった。それはひとつの暗室で、電気をたくさんひいて、その電気の明かりのなかで夜着る服を見定めるようにしなければならない、と(読売新聞 1908/2/15: 5)。 化粧も同様だった。「電気灯の点いて居る処へ行くには、少し紅みをさした化粧(つくり)にして置かねば顔が青みがかって見えますが、瓦斯や洋燈の灯りならば、白く塗ってあっても、よろしゅうございます。昼夜で区別しますと、夜は少し濃いくらいで、丁度好いので……」とは、九代目団十郎の意見(【衣裳界】 1906/9月)。 (大丸 弘) |