近代日本の身装文化(参考ノート)
テーマ 装いの周辺
No. 011
タイトル キリスト教
解説

「無智な大衆」が、理由もなく毛嫌いしたり、怖れていたのが、近代100年の後半では赤――共産党だとすると、前半ではキリスト教だったろう。しかしキリスト教が日本の社会にある種の影響力をもっていたのは、むしろ明治時代だった。

1873(明治6)年の6月に、列国の圧力により新政府は、「従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除可申事」という布令によって、切支丹禁制の高札を撤廃した。けれどもすでに横浜など開港地では、多くの宣教師が活動を開始していた。

彼らが最初に手をつけたのは当然ながら語学塾だった。中国での伝道の経験をもつ医療伝道師ヘボン(James Curtis Hepburn 1815-1911)夫妻は、繁昌していた故郷の病院を閉じて1859(安政6)年来日、横浜居留地でおもに外科、眼科の医療活動とともに、英語教育を通じて伝道に従事した。ヘボン塾からは高橋是清、林菫(ただす)、三井物産創設者の益田孝などが育っている。ヘボンは明治学院の設立にも力をつくし、その第1回卒業生のなかには島崎藤村がいる。横浜のフェリス女学院もヘボン塾のながれをひくもの。

フェリス女学院の卒業生で『小公子』の名訳で知られる若松賤子(しずこ)は、夫の巌本善治らとともに明治女学校で教鞭をとった。明治女学校は1885(明治18)年の創立、巌本は教頭、二代目校長をつとめ、歴代の教員講師のなかには、島崎藤村、津田梅子、植村正久、音楽の幸田延子がいる。巌本はまた【女学雑誌】を刊行、その発言、主張は1890年代の思潮にすくなからぬ影響をもった。彼はプロテスタントの信者だったが、宗教的倫理の日常生活での実現を意図し、ミッションスクールとは一線を画していた。

1871(明治4)年創立の熊本洋学校、1874(明治7)年創立の札幌農学校は、いずれも公立学校だったから宗教教育はありえなかったが、前者には、退役軍人ではっきりと宣教を目的に来日を決意したリロイ・ランシング・ジェーンズ(Leroy Lansing Janes)、後者には、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が赴任、どちらも多くの学生たちに、大きな人格的、宗教的影響を与えた。ジェインズの帰国で廃校になった熊本洋学校の生徒たちは、いわゆる熊本バンドを結成して信仰を誓いあい、大挙して京都の同志社に移った。そのなかにはのち民友社を創立した思想家、徳富猪一郎(蘇峰)も含まれる。札幌のクラークの膝元からは、新渡戸稲造、内村鑑三らが育った。

一方、明確にキリスト教の旗を揚げて出発したミッションスクールの数も多い。明治学院、青山学院、大阪の梅花女学校、西宮の関西学院、京都の平安女学校、神戸の神戸女学院、横浜のフェリス女学院など、本国のミッションボードの資金によって運営される学校が、いずれも明治中期までに創設されている。

ミッションスクールは宗派の違い、本国ミッションボードの資金力や考えかたによって性格は一様でないが、概していえば校風は自由で明るく、制服などには無関心な学校が多いのは、とくにプロテスタントでは、アメリカのミッションが主であるためだろう。一方で、外国人の女性教師には、生徒の歩きかたや、外套への手の通しかたまで、手をだして世話をやく人も少なくなかった。カーテンの趣味やベッドメーキングなど、多くは耳学問に終わったとはいえ、授業とは関係のないアメリカンスタイル・オブ・ライフのはなしは、少女たちの真っ白なあたまには新鮮だったはずだ。在学中は教会に通い、なかには洗礼まで受け、しかし結婚後は聖書にさわることもなくなってしまう女性が多いにはちがいないが、外套を片袖から通すというようなしつけは、一生身についていただろう。第二次大戦中でさえ、また1950、60年代になっても、横浜では明治生まれのフェリス出の婦人といえば、どことなく違うように見られていた。また当然語学教育には熱心で、口の中に指をさし込んで発音を矯正したりする。こういった点を買って、娘をいやいやながらでもミッションスクールに通わせる親もあったらしい。

1890年代(ほぼ明治30年代)の東京では、ミッションスクールの女学生や、熱心に教会に通う娘にはひとつのしるしがあったという。それは1880年代末(明治30年頃)に大流行して、そのあと不人気になった、マーガレットとか英吉利(イギリス)巻などというバタ臭い名の束髪を、相変わらず結い続けている娘が多かったことだ。ただしその姿は下町には少なかった。束髪もハイカラも耶蘇も、江戸っ児の気っ風には馴染みにくかったらしい。

しかしその下町で、キリスト教の活動が人々に衝撃を与えたのは、救世軍による廃娼運動だった。矢島楫子(かじこ)らによる日本基督教婦人矯風会の結成は1886(明治19)年に遡る(→年表〈事件〉1886年12月 「矯風会結成」『日本基督教歴史大事典』)。矯風会の主たる目標は、平和、純潔、禁酒の3点だ。しかしこのどれもが、明治の日本は容易に受けいれられるような時代ではなかった。1904(明治37)年の日露戦争に、一高に在職していた内村鑑三は戦争反対を唱えて、退職に追い込まれる。また酒の害とか、純潔などということばは、日本人の辞書には存在しなかったといってもいいだろう。大新聞の紙面でもだいたいは冗談ダネ扱いだった。

矯風会は公娼廃止、一夫一婦制、海外醜業婦の救済といったことに関して政府に建白書を提出するなどの活動をしたが、救世軍はさらに積極的に、直接吉原などの遊廓に出向いて、女たちに自由廃業をよびかけ、また廓(くるわ)を抜けだした女たちの受けいれの場をつくるなどした。廓の営業者や、雇われたならず者に暴行を受けるようなこともあった。

暮れの街頭社会鍋と、その浄財による炊きだし、貧民窟訪問などの活動は、根強かった耶蘇嫌いの庶民感情を薄れさせてゆくひとつのきっかけにはなったはずだが、しかしまた、賀川豊彦の『死線を越えて』や、その後の労働運動などとともに、「主義者」の疑いという、もうひとつの偏見と結びつく可能性もあった。

1910年代以後(ほぼ大正~)のキリスト教は、羽仁もと子の【婦人之友】活動にみられるように、中産階級の平和な日々の営みのために祈りを捧げる、より教養的な方向に舵をとった、ともいえる。

(大丸 弘)