テーマ | 装いの周辺 |
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No. | 008 |
タイトル | 華族 |
解説 | 明治新政府の打ち出した四民平等のたてまえは、華族という特権階級を温存することで不十分のものとなった。ひとつかみといってもよい華族の存在などは、庶民にとってはなんの関係もないともいえたが、そのひとつかみの華族が、小説のなかなどへはけっこう頻繁に登場するのをみると、そういう人たちが存在しているという事実は、小さくない意味をもっていたにちがいない。 1884(明治17)年の華族令公布により、わが国も欧州諸国の制度を見ならって、公、侯、伯、子、男の五爵位が定められた。1900(明治33)年現在では、公爵11人、侯爵33人、伯爵89人、子爵363人、男爵220人の合計726人。爵位は原則として世襲だが、爵位をもっているのはその家の当主だけだから、当主以外の血族は一定の礼遇をうけるだけになる。血族を含めた華族の人数はおなじ時期、ほぼ4,600人だった。 イギリスのように爵位が所領と結びついていて、伯爵とは伯爵領の所有者ということであると、ひとりの人間がいくつかの爵位を兼ねるといったことも多く、有爵者はすべて地方に広い領地をもつ資産家であるのに対して、明治華族は基本的には、一家の主人ひとりの持つ称号だけの地位だ。 しかし華族の多くは旧大名のように、もともと特権階級として一般人民とは比較にならない家産を所有していたのだから、よく口の端に上る貧乏華族というのは例外だ。1873(明治6)年の[東京日日新聞]の記事によるなら、その時点で432人の有爵者ひとりの平均月収が747円、これは勅任一等官より多い、とある(→年表〈現況〉1873年11月 「華族の総数」東京日日新聞 1873/11/9: 1)。勅任一等官といえば各省大臣がこれにあたる。 それでも政府は華族の資産を守るため、彼らの所有する金禄公債をもって1877(明治10)年に第十五国立銀行を、4年後の1881(明治14)年には日本鉄道会社を設立、そのほか北海道開拓に関するプロジェクトなどいくつかの国営事業への出資をもとめ、それによって、華族たちは相当の収入が保証されることになった。一口にいって華族さんとは、育ちがよくて、生活の苦労などなにひとつ知らない人びと、というのが庶民の受けとり方だった。 華族には大きく分けて、旧藩主とそれに準ずる高禄の武家などの大名華族、旧公卿家の公家華族、それと維新とそれ以後に国家に勲功のあった者に授けられた勲功華族とがある。明治からは当然、軍人など勲功華族の数だけが増えてゆく。もともと身分というあいまいな根拠の上に誇りをもっている華族さまには、その華族内部での上下意識がかなり強かったらしい(→年表〈現況〉1886年1月 「華族会館(鹿鳴館)の存廃」東京日日新聞 1886/1/17: 5)。したがって大倉(喜八郎)男爵だとか、軍人あがりのお仲間は新華族と呼んで、いくぶんの違和感も持っていたようだ。 育ちの良さ、というのはなにも華族だけの特権ではないが、産湯のなかからなに不自由ない環境で、きつい雨風にも遭うことなく、よい躾をうけてのんびり育ったお姫様若様が、あけっぴろげで穏やかなお人柄であろうことは、容易に想像できる。 維新の元勲のひとり伊藤博文が、たぶん朝鮮総督時代の晩年に下関の料亭で風呂に入った。世話をした料亭の女将が、あのお方はお生まれはそう高いご身分ではないらしい、と人に語ったそうだ。それは伊藤が浴室に入るとき、手拭で前を隠していたからだという。皇族方をはじめ大勢の貴顕を迎えた経験をもつ、女将の感想だが、それと対比されるのは、太宰治の『斜陽』の冒頭に出てくるお母さまだろう。「私」の母親であるたぶん五十がらみの女性は、庭の傍らの萩のしげみの奥で、しゃがみもせず、おしっこをしていた。それが、「私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった」。主人公の弟が言う、「爵位があるから貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位がなくても、天爵というものを持っている立派な貴族の人もあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賎民に近いものもいる(……)おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」。 大正も末の1923(大正12)年、華族さんの子弟について[東京日日新聞]はこんな観察をしている。 現在東京在住の華族の子どもは約千四百名である。(……)日常少なくとも十余名の召使にかしずかれている公侯爵級の子女は一頭地を抜いて悠然たるものがあり、純真な心の持ち主であるという。総じて華族の子女は競争心を欠き、身体精神両面において劣等児がかなり多い。(……)(華族と一般の子供の体格を比較して)華族の子弟がいかに背だけひょろ高く胸部の狭い優姿(やさがた)にできているかが窺われ、呼吸器病の多いこともわかる。また彼らが性に目覚めるのは平民の子どもより約2年早いのを見過ごすわけにいかない。これは確かにたくさんの侍女や召使いの感化によると思われる。 志賀直哉の初期の中編『速夫の妹』は、志賀の小・中学校時代の遊び友だちの家族、子爵家の人びとの日常が、なにげない筆で、しかしよくとらえられている。後年作者は『創作余談』のなかで、だいぶ潤色している、と書いているが、同時に作者が懐かしんでいるように、骨格は事実に添った追憶とみてよい。 速夫のまだ9歳ほどの妹の、女中に対するきついものの言い方、逆に兄の友だちに対する気どったものの言いかた「召し上がれ」、「(兄が)直ぐいらしてよ」、また女中の「速様は今、お召替えですから直ぐにいらっしゃいます」などは、いかにもこの時代の東京の上流家庭を思わせる。それ以上に印象的なのは、12、3歳の速夫の格好だ。 自分が羨ましくてならなかったのは米国の大学で運動の時に被るとか云う、軽そうな、洒落た鳥打帽子だ。赤地に黄の筋が四五本巻いてある。その赤も少し海老茶がかったいい色で、品は今思えばこはくと云うようなものかも知れぬ、何しろ光沢(つや)があって、華美(はで)だからひどく自分の心を惹いた(……)。 この帽子を鳥打と呼んだのは主人公の知識だから、当時はまだわが国でほとんど知られていなかった野球帽だったかも知れない。速夫の兄は18、9歳で新橋芸者を囲い、心配した両親の計らいでアメリカ留学させられた。父親の急死で学業半ばで戻ってきたが、あちらの土産も多かったのだろう。しかし芸者に入れ込んだ息子を外国留学にとばすというのも、そうだれでもできることではない。 時間は遡るが、主人公が初めて見たときの、6歳の速夫の妹の学校通いのすがたは、「眼の大きいまるまると太った子で、西洋人の子が被るような大きな帽子を被って、ボタンで止める小さな半靴を穿いていた」。時代は作者が8歳の1891(明治24)年頃、小学校へ通う少女にこんな洋服を着た子がほかにいただろうか。10年も後の『東京風俗志』(1899~1902)のなかの、松本洗耳の描いたごく近くの番町小学校に通う子どもたちをみれば、両親、とりわけこの時代府知事だった父親が、いかに時代を先取りするタイプの人物だったかが窺われる。 小説では浅香家となっているが、モデルは高崎家で、父親の高崎五六は鹿児島出身、1886(明治19)年から1890(明治23)年まで東京府知事、1889(明治22)年、1890年は東京市長も兼ね、勲功華族の男爵だった。 もちろん華族だから進取的というわけではない。ただ、1920年代(大正末~昭和初め)の、少年少女たちを中心としたわが国の洋装化が、なによりも欧州大戦後の、生活のゆとりを基盤としていたことを思いだすべきだろう。華族たちの生活のゆとりは、見栄えのいい若様の女遊びや、古器物の愛玩にとどまらず、あまりものに囚われない好奇心の動くまま、盛んな外国旅行や子弟の遊学にも情熱が注がれたのだ。ただし彼らの外国での豊富な見聞は、大学勤めの学者のような、生活や名利の必要には無関係だったから、彼らが得たもの、身についたもの、持ち帰ったものは、彼らの言行や身辺にとどまり、また、奥深い屋敷の外へも出る機会がとぼしかったのだ。 浅香家は芝山内に洋風の知事官舎があり、知事を辞めたあとはその近くの増上寺の、もと学寮だったというところに移った。当時、麻布三河台に住んでいた志賀の家からは、飯倉、六本木を経て、子どもの足だと15分くらいはかかるかもしれない。このあたりはいわゆるお屋敷町で、華族さんの住まいも多かった。 江戸川乱歩の少年探偵団シリーズには、怪人二十面相が目をつける相手に、よくこの麻布辺のお屋敷町というのが出てくる。高い石塀に囲まれた古風な洋館のなかには、日常の常識とはちがう、ふしぎな世界が潜んでいるようだった。 (大丸 弘) |