文献番号 | 01_AR072383 |
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著者名 | 稲雄次/イネ ユウジ |
書名・論文名 | 猿倉人形芝居 |
掲載誌名 | 国立歴史民俗博物館研究報告 109 |
出版者 | |
発行年月日 | 2004 (3) |
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掲載ページ | pp.321-338 |
シリーズ名 | |
OWC | AB |
地域・民族名 | 日本 |
特定地域名 | |
時代区分 | |
時代通称名 | 江戸 |
キーワード | 猿倉人形芝居;池田与八 |
抄録 | 江戸時代中期から盛んになった人形芝居は,文楽・人形浄瑠璃として今でも国立文楽劇場(大阪・日本橋)で演じられている。それは集団伝統の伝統芸能として,その伝え継ぐ姿勢がハッキリと確立されているからである。民俗の変容が叫ばれている昨今,人形芝居というものを素材にして,その集団的,組織的な伝承文化と,個人的,非組織的な伝承文化の比較をこころみてみた。本稿では,いかに個人の伝承が弱いものであり,一過性的なものであるのかを説こうとしているのかが主旨である。猿倉人形芝居は池田与八が考案した一人遣(ひとりつか)いの人形芝居である。いわば江戸時代で完成された三人遣(さんにんつか)いの人形芝居の文楽から派生したものである。徹底的に文楽と反対の志向を採用した。それは文楽が定住的,歌舞伎的要素をとるのに対して猿倉人形芝居は,巡回・移動,野趣で土俗的方向へと走って行った。その最も決定的な違いが人形操法の「手妻遣(てづまつか)い」であった。この手妻遣いで当時の活動写真(後の映画)と対抗したのであった。この手妻遣いは,手品と同じであり,電光石火(でんこうせっか)のごとく瞬間の早技が勝負であった。そして,次々と新しい技法を開発しなければならなかった。継続的に新しい操法を発明しなければ自然淘汰されてしまう世界であった。猿倉人形芝居は,文楽の集団的,伝統芸能の道ではなく,逆の道を歩んだのである。創始者である池田与八は猿倉人形芝居の将来を見据えていたのである。早々と隠居して,飴売り屋に転じたのである。猿倉人形芝居を歴史,操法,構成,考察から論じ,一人遣いの人形芝居の伝承文化の個人についた芸ということについて論じたものである。 |
身装概念 | AU195:[人形;ロボット] AU209.2:[日本の伝統芸能(歌舞伎,能,狂言等)] AP012:[服装史;服飾史;歴史的研究;歴史的推移;時間的変化] |
服装専門分類 | AU1:[総記;着用者] |
資料タイプ | |
資料所在 | |
国会図書館請求番号 | |
日本十進分類 | |
版次 | |
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リンク | 国立情報学研究所 CiNii |